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第30話

 部屋に戻ると、(あずさ)がぽつねんと立っていた。まだパーカー姿のままだ。フードすら脱いでいない。 「なんだ、おまえ。さっさと着替えろよ。風呂は? 入るのか?」  漆黒(しっこく)はそう問いかけながら、ベッドサイドに置いてあったタバコに手を伸ばし、火をつけた。  ゆらゆらと立ち上る紫煙の向こうに、まごまごとした様子の梓が見える。  三日ぶりにここへ戻ってきて、緊張でもしてるのだろうか?  梓の手は、服の裾をぎゅっと握っていて……漆黒はふと、その長袖から覗く手首に赤い擦過傷が出来ていることに気付いた。  あれは……緊縛の痕だ。    漆黒は咄嗟にタバコを噛んで、湧き起こる衝撃をやり過ごした。  そうだ。  梓は最初からやくざの愛人を装うために、淫花廓(いんかかく)へ来たのだ。  そして三日を、鬼頭(きとう)佐和山(さわやま)か……はたまたべつの男の下で過ごした。  恐らくは体も開かれている。  緊縛の痕があることぐらい、なにも不思議ではなかった。  自分にそう言い聞かせ、漆黒は平然とした風を装った。  しかし、梓は俯いたまま顔を上げようとしない。 「梓?」  そう言えばまだひと言も梓が口をきいていないことを不思議に思い、漆黒は語尾を跳ね上げた。  そして、フードに隠れているその表情を見ようと、梓の顎下に手を伸ばす。  そのとき。  ビクっ!! と、過剰なまでに梓の肩が跳ねた。  漆黒の手から逃れようとでもするかのように、背後へと後退る。  その足が途中で絡まり、梓がバランスを崩した。 「おいっ、バカっ」  漆黒は慌てて彼の腕を掴んだが、背後への傾きは止まらず、梓の体は床へと倒れてゆく。  漆黒もともに倒れながら、両腕に細い肢体を抱きしめて、途中でくるりと反転した。    ドサ……と音を立てて、2人は重なりながら横たわった。 「梓。大丈夫か?」  漆黒は、自分の上に乗る形となった少年の背をポンポンと叩き、問いかけた。    梓は……梓は、漆黒の胸に顔を埋めるようにして、黙したままであった。  その頭を覆っているフードを、漆黒は静かな動作で摘まみ上げた。  さらり、と癖のない黒髪が零れる。  フードを取り去った彼の後頭部をひと撫でして。  漆黒は梓ごと上体を起こした。  胡坐をかいた足の間に、梓を横抱きに座らせて、改めて露わになった顔を覗き込んだ。 「…………」  束の間、漆黒は絶句した。  梓の左の頬骨とこめかみは、大きなガーゼで覆われていた。  まぶたは腫れ、紫色に変色している。  唇も、切れていた。  梓の手をそっと掴み、肘のあたりまでパーカーの袖を捲り上げる。  その白い肌に残っていたのは、緊縛の跡だけではなかった。  青や紫色の痣が、くっきりと浮かんでいた。 「どうしたんだ、これは」  低く獰猛な声が、喉奥から漏れた。  梓が、痛々しく腫れた唇を引き結ぶ。  漆黒は一度、己を落ち着かせるための深呼吸を挟み、それから重ねて問うた。 「殴られたのか?」  梓の頭が、小さく肯定の形に上下した。    「なんでだ」  ゆっくりと袖を元の位置に戻しながら、漆黒は梓が帰ってきたときの……廊下を歩いていたその足取りが、妙にふらふらしていたことを思い出した。  もしかすると、足にも怪我を負っているのかもしれない。  だからバランスを崩して倒れたのだ。 「……ぼ、ぼく……」  梓がようやく口を開いた。  唇が動かしにくいためか、少し舌ったらずな口調だった。 「す、すみませんでした……」  謝罪の言葉と同時に、梓が深く頭を下げた。  漆黒は謝られた理由がわからずに、困惑する。 「なんでおまえが謝るんだ?」 「だ、だって……せっかく、色々教えてもらったのに……」  梓の、子犬のような黒い瞳に、涙の膜が張った。  けれどそれは雫にはならずに、ぎりぎりで目の縁に留まっている。  泣くまい、とこらえている子どもの肩を、漆黒はゆっくりと撫でた。  色々教えてもらった、というのは、食事や礼儀に関する作法のことではないだろう。  梓が淫花廓へ来た、一番の理由はセックスを教わることだった。  漆黒が梓の体に教え込んだ性技が、なにかまずかったとでもいうのか。 「俺が……俺がおまえに教えたことが、なにか、鬼頭の不興を買ったのか?」  それならばそれは、漆黒の咎だ。  そう思い問いかけた漆黒だったが、梓が首を横に振って否定する。 「い、いいえ。違います。……違うんです」    瞬きをした拍子に、ぼろり、と大粒の涙が梓の頬を転がり落ちた。  漆黒は、梓の傷に触れぬよう、てのひらでそっと、その水滴を拭った。  梓が目を閉じて、すり……と頬を漆黒のてのひらにこすりつける。  ペットが懐くような、自然な動作だった。  無意識のそれだったのだろうか。  梓はそうしてから、不意にハッとしたように瞼を持ち上げて、漆黒の手から顔を離した。  そして、苦しいような表情で、もう一度、「違うんです」と繰り返した。 「なにが違うんだ。俺がまずいことをしたなら、俺が罰を受けるのが相応だろうが。おまえが殴られることじゃない」  腹立たしく吐き捨てた漆黒の、その語尾に被って梓が、 「僕が悪いんです!」  と、唇の傷も忘れて大きな声を出した。  口角にあった切り傷がピリ……と裂けて、血の赤が滲む。  梓はそこを、手で隠して、ぼそぼそと続けた。 「僕が……僕が、うまくできなかったのが悪いんです……」 「梓。うまくできないって、具体的になにがダメだったんだ」  とんとんとあやすように彼の背を叩いて、漆黒は梓へとそう問うた。  俯いた梓の、長い睫毛が、痛々しい頬に憂いの影を落としている。  葛藤を示すように、眼差しが床の上をうろうろと彷徨い。  やがて梓が、消え入りそうな声で、ポツリと応えた。 「…………拒んで、しまって……」  ほとり、と丸い涙の粒が落ちて、漆黒の膝の上に染みを作った。  漆黒のてのひらが乗った、梓の背が。  一度、大きく震えて。  梓がはかない囁きを落とした。 「漆黒さんじゃ、なかったから……嫌だと、思ってしまって……僕、僕……」      漆黒は。  絶望のような暗澹とした思いで、彼の声を聞いた。  梓を慰めるための手は、そのとき無様に強張った。  般若に告げられた、手前の仕事を思い出せ、という楼主の伝言が耳に甦る。  自分に向けられた般若の怒りの意味も、漆黒はようやく、痛いほどに理解した。  漆黒の、中途半端な振る舞いが……。  男娼として梓を抱いておきながら。  警察の立場に戻るために……そのためだけに梓に偽物のやさしさを与え、己に惚れさせた、そんな……中途半端な振る舞いが。     梓に、こんな傷を負わせたのだった。  漆黒の罪が、いま、眼前に突き付けられている。  梓のこめかみを覆う、白いガーゼとして。腫れた唇として。変色した瞼として。痣だらけの皮膚として。  漆黒を、責めていた。      

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