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第31話
梓はタバコの香りの満ちる部屋のベッドで、眠りについた。
漆黒の匂いだ、とそう思う。
三日ぶりに会った漆黒は、やはり恰好良くて……。
シャープな頬のラインや、綺麗に整えられた顎髭に、つい見惚れそうになった。
漆黒は大人の男で……彼に釣り合うのは多分、うつくしい大人の女性なのだ。……梓のような、子どもでは、なくて。
梓はゆうずい邸のエントランスで見た女性のことを思い出した。
彼女は漆黒と抱き合い……化粧を施した綺麗な顔に、華やかな微笑を浮かべていた。
あの女性こそが、涼香 なのだろう。
青藍 が以前に言っていた、漆黒の『本命』のお客様。
お似合いだった。
すらりとしたバランスの良いスタイルも、複雑に結い上げた艶やかな髪も、漆黒に抱き寄せられた腰のラインも、頬にキスをされているときのくすぐったそうな表情も。
なにもかもが、漆黒と並んで遜色なく、うつくしかった。
梓は、少し離れた場所からそれを目撃して……消えてしまいたくなった。
彼女と比べて、梓はなんて、不釣り合いなのだろう。
子どもで、男で、色ごとに不慣れで。
自分の立場もわきまえずに、漆黒のことを……好きになってしまった、どうしようもないバカで。
だから梓は、殴られても仕方ないのだった。
ずきっと、こめかみや頬が痛んだ。
佐和山、という男に連れられて淫花廓へ戻ってきた梓は、着流し姿の楼主が呼んだ医者に、傷の処置をしてもらった。
打撲や切り傷ばかりで、骨には異常はなく、1週間もすれば痣なども消えるだろうと、医師は言っていた。
梓に残された期間は2週間なので、不都合はないというわけだ。
ごろりと寝返りを打って、ガーゼの上からそっと傷口を抑えると、すぐに漆黒の手が伸びてきて、
「痛むのか?」
と、心配げなバリトンが尋ねてきた。
梓は小さく、首を横に振った。
「つらいようなら、いつでも起こせよ?」
念押しをしてくる漆黒へと、こくりと頷いて。
梓はもう一度体の向きを変えて、漆黒と向かいあった。
久しぶりの、漆黒の香りだ。
離れていた時間は、たったの3日なのに。
会いたくて、たまらなかった。
会えば会ったで、なにを話していいのか、わからないのだけれど……。
「もう寝ろ」
瞬きの少ない瞳で男の整った顔を見ていると、大きなてのひらが近付いてきて、両の瞼を覆われた。
梓は反射的に目を閉じてしまい……訪れた暗闇と男の手のぬくもりに、眠気を誘われる。
梓がふぅと吐息すると、しばらく留まっていたてのひらが、やがてゆっくりと離れていった。
梓は薄目を開けて、男の指先を視線で追いかけ……その向こうの漆黒の顔を盗み見た。
漆黒が、警察関係者だと身分を明かし、協力してほしいという彼の要請を梓が拒んで以降、漆黒は梓へ口づけをしてくれなくなった。
それが寂しくて……彼のタバコの吸い殻を、隠れてポケットに忍ばせた。
その吸い殻も、もう梓の手元にはない。
梓は漆黒のシャープな頬のラインと、顎に生やした髭と……その口元をぼんやりと、細めた瞳に映した。
いつもタバコを咥えている、男の苦い唇の味を。
もう一度、教えてほしいと思った。
……あと、一度だけでいいから。
三日前のあの日。
梓は、梓の『仕上がり具合』を確かめに来たという佐和山に連れられて、淫花廓の外へと出た。
「『あのこと』はちゃんと、覚えているな?」
車の後部座席に並んで座る梓の方へ一瞥もくれずに、佐和山が冷たい声で問いかけてきた。
あのこと、がなにを指すのかは、尋ねずともわかった。
だから梓は「はい」と答えた。
「今日が、おまえにやれる最後の自由時間だ。なにか希望はあるか?」
顔を前に向けたまま、佐和山がタバコを唇に挟む。
助手席から慌てて半身を捻った青年が、ポケットからライターを取り出そうとするのをてのひらで制して、佐和山は自身の胸の隠しから取り出したジッポーで火を点けた。
ゆらり、と隣から立ち昇る香りに、梓は違和感を覚える。
男の喫うタバコの匂いは、漆黒のそれとは違いすぎて……梓はズボンのポケットの中に手を潜らせた。
そこには、タバコの吸い殻がある。
漆黒が灰皿に捨てたそれを、梓は衝動的に拾ってしまったのだった。
指先で、ひしゃげたタバコの形を辿った。
漆黒の唇に触れたのだと思うと、フィルターの感触ですらなにか特別なもののように感じられた。
「……理久 、に、会わせてください」
「誰だって?」
「理久です。僕の、同室の……」
「ああ、あれか。おい、病院へやれ」
言葉の後半を、運転席の男へと向けて、佐和山はあっさりと梓の願いを聞き届けてくれた。
「理久は、入院してるんですか?」
「おまえの希望だと聞いているが、違うのか?」
「いえ……いいえ。あ、ありがとうございます」
梓は男へと頭を下げた。
理久を、いい病院にかからせてほしい、というのが梓の望んだことであった。
ちゃんとそれが果たされていたことを知り、梓は安堵した。
爬虫類のような印象の佐和山の黒目が、ちろりと動いて初めて梓の方へ向けられた。
「子どもはやはりバカだな」
独白のように呟かれた言葉の意味は、梓にはよくわからなかった。
理久の入院先は、施設から一時間ほどの距離の、自然の豊かな場所に建つきれいな病院だった。
田舎に位置するが、都心部の大病院にも負けぬ設備と、腕の良い医者が居るのだという。
病室は個室がほとんどで、プライバシーも守られることから、政治家などが『療養』目的で入院することもあるのだという。
梓は清潔な廊下を、ひとり歩いた。
佐和山やその部下は、駐車場で待っている。いまさら梓が逃げたりしないと判断したのだろう。
教えられた部屋番号の前で足を止め、控えめなノックをする。
「……はい」
小さな声が、聞こえてきた。
理久だ。
理久の声だ。
梓は二週間ぶりに聞く親友の声に、泣きながらスライドドアを開いた。
個室の、ベッドの上に半身を起こして、膝の上に文庫本を広げていた理久は、飛び込んできた梓を見て、目を真ん丸にする。
小枝のように細い腕には、点滴が繋がっていた。
「理久っ」
涙声で叫んだ梓は、彼に走り寄り、梓よりも一回り小さな体に抱き着いた。
「……あずさ?」
恐る恐る、というように、理久が梓の名を呼ぶ。
「ほんとに、あずさ?」
「うん。ごめん。急に居なくなってごめんね」
鼻をすすって、骨ばった肩に頬を押し当てる。
理久の纏う病衣からは、病院そのもののような匂いがした。
理久の痩せた指が、梓の背に回った。
そのまま、強いちからでしがみつかれて、梓はこの二週間の理久の孤独を思い知らされた。
「あ、梓っ、梓っ。バカっ! 心配したっ! ど、どこに、行ってたんだよっ」
バカ、と罵る度に、弱弱しいこぶしで背中を叩かれる。
2人は泣きながら、強く強く抱擁しあった。
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