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第32話

「オレのせい?」  と、理久(りく)がようやく涙の止まった目を(あずさ)へと向けて、問いかけてきた。  梓が小首を傾げると、 「おまえが居なくなってすぐ、この病院につれて来られたんだ。オレ……オレを医者にかからせるために、なにか、おまえが交換条件出されたんじゃないかって、ずっと思ってた」  理久が苦し気に眉を寄せ、語尾を震わせてそう言った。  梓は……なんと答えていいかわからずに、ただポツリと、「違うよ」と呟いた。  どう説明すれば、理久の気持ちは楽になるのだろうか。  考えながら、口を開く。 「僕は……仕事を、させてもらってて」 「仕事?」 「うん。院長先生に、紹介してもらって」 「変な仕事じゃないよな?」  理久が訝しむように下瞼をひくりと動かした。 「ち、違うよっ」  梓は慌てて手を振って、それを否定する。  体の弱い理久は、昔から外で遊んだりすることができなかったから、その代わりに彼は周囲のひとの観察をよくしていた。  人間ウォッチング、と称して子どものみならず、孤児院で働く大人たちのこともよく見ていた理久は、あの先生は今日は機嫌がいいだとか、髪型が変わっただとか、あの子はズボンのすそに草の汁がついているから裏の空き地に行っただとか、そういうことにいち早く気付くのだった。  その理久の、観察眼に長けた視線を間近に感じて、梓は下手な嘘はつけないことを悟る。  なにか……理久が安心できるようなことを言わなければならない。  焦る梓の脳裏に、ふと、漆黒(しっこく)の顔が思い浮かんだ。  目尻にしわを作って笑う、タバコを咥えた、男の顔が。 「あ、あのね、理久……」 「うん」 「僕……いま、住み込みで仕事を教えてもらってて……そ、そこでね、好きなひとができたんだ」 「はぁ?」  理久の目が真ん丸になって、薄い唇から素っ頓狂な声が漏れた。  そんなに驚かれるとは思っておらず、梓の頬が真っ赤に火照る。 「好きなひとって、おまえが?」 「そ、そうだけど……」 「エロ本もAVもまったく興味ないって知らん顔してたおまえが?」 「そ、それは理久もそうだろっ」 「オレは性欲にまで体力が回らないだけ。おまえは違うじゃん。それで?」 「え?」 「どんな女? 年上だろ」  ずばりと断言されて、梓は忙しなく瞬きをした。 「な、なんで?」  どもりながら問い返すと、理久が細い肩を竦めて、苦いような顔で笑った。 「だっておまえ、オレの世話、いっつも焼いてくれてたけど……ほんとはおまえだって、甘えたい方だもんな」  理久の指が、布団の上にある梓の手の甲を、やわらかく撫でる。    ごめんな、と理久が囁くトーンで言った。  なぜ、理久が謝るのか。  梓は彼の謝罪の意味がわからず、はかないような白い手を握り返した。 「オレのせいで、我慢したこと、いっぱいあっただろ? だから、ごめんな」 「理久……」  喉の奥が、色んな感情で塞がれて、梓は息苦しくなった。  はふ……と息を吐き出して、梓はぶんぶんと首を横に振る。 「そんなふうに、思ったことない!」  強い口調で否定すると、それを聞いた理久が、泣き笑いのような表情を見せた。    理久がその、ガラス細工のような外見とは裏腹の、強気な物言いをするのは、彼の装いだと梓は知っていた。  体が弱い分、舐められないように、気持ちまで弱くならないようにと、精いっぱいの虚勢を言葉に纏わせて。  それが、彼の頑張りなのだと、梓は知っていた。  だからいま、弱気な声を聞かせる理久が、悲しくて。  いつものように、話してほしいと、思った。 「理久……あのね」 「ん?」 「僕の好きなひと……女のひとじゃないんだ」 「へぇ……って、ええっ? なに、どういう意味?」 「お、男の、ひと、っていう意味……」  理久がガバっと体を動かし、ベッドの上で正座をした。  そのまま、上体をぐっと梓の方へと倒して、 「マジで?」  と真ん丸な瞳で問いかけてくる。  梓は、あまりに急に理久が動いたから、点滴が抜けてはしまわないかとハラハラして、大きく揺れた管に意識を取られながらも、こくりと頷いた。 「……おまえ、そっちだったの?」 「そっちって?」 「男が好きな奴だったわけ?」 「どうなんだろう……? 初めて、好きになったひとが、男のひとなんだけど……あ、ぼ、僕のこと、気持ち悪い?」  急に不安になってそう尋ねると、理久がムッと唇を曲げて、 「バカか」  と、梓の頭をパシっと叩いた。   「驚いただけだろ。でも、そっかぁ~。男か~。どんな奴?」 「ん……大人で、着物がよく似合ってて、すごく恰好良いひと」 「面食いかよ。あ、そっか。そいつ、タバコ喫うだろ?」 「え、なんで?」 「おまえから、ちょっとタバコの匂いがしたから」  理久のその言葉に、梓は慌てた。  喘息持ちの理久は、タバコの煙を忌避している。匂いですらも彼の体に障るのではないかと、梓は無意味にパタパタと袖をこすった。 「バカ。そんなんで落ちないって。大丈夫だよ。ほんのちょっとだから」  可笑し気に肩を揺らす理久に、梓も曖昧に笑う。    理久の指摘したタバコの匂いは、恐らく、移動する車中で、佐和山が喫っていたものだ。  漆黒の匂いは、もう、消えてしまっている。  梓はズボンの上から、ポケットの中の吸い殻を押さえた。 「……うん。ヘビースモーカーで、いつもタバコを咥えてる」 「オレと会うときは遠慮しろって言っとけよ?」 「え?」 「え? 紹介、してくれねぇの?」  屈託なく、問われて。  梓は思わず、顔を伏せた。 「あ、あの、べつに、付き合ってないから……。僕の、片想いってだけで」 「いいじゃん、梓が世話になってますって挨拶するだけだし。仕事教えてくれてるひとなんだろ? おまえの好きな奴に、オレも会ってみたい」 「で、でも、忙しいひとだから……ここには、来られないよ」 「オレが退院したらさ、オレの方から行くから」 「理久……」  会ってみたい、というだけで軽々しく会いに行ける場所に居るひとではないのだと、どう説明すればいいのだろうか……。  それに、理久の退院はまだ先だろう。  彼がこの病院から出る頃には、梓は、もう……。  表情を曇らせた梓を見て、理久の眉も険しく寄せられた。 「おまえ……そんな、オレに会わせられないような変な奴に惚れたのか?」 「ち、違うよっ」  理久の勘違いを、梓は急いで否定した。 「変なひとじゃないって! すごく恰好良くて……すごく、やさしいひとだから」  そうだ。  漆黒は、やさしい。    梓、と名前を呼ぶ、バリトンの声も。  梓に触れる指の動きも。  梓を抱くときの、肌の温もりも。  なにもかもが、やさしい(ひと)。 「なんて顔してんだよ」  理久がまた、梓の頭を軽いちからで叩いて、小さく鼻を鳴らして笑った。 「そんな、恋しいです~って顔するなら、さっさとコクれば?」 「なっ……そんな顔、してないよ」 「してた。すっげぇしてた。オレにべったりだったおまえがねぇ……そんな顔するなんてな」    自分で乱した梓の髪を、理久の痩せた指先がサラサラと整える。  そのまま、ゆるいちからで抱き寄せられて、梓は逆らわずに理久に体を寄せた。  病院の匂いのする理久の、細い腰に腕を回す。    理久。  梓の親友。梓の家族。梓の半身。    理久が漆黒に会ったならば、彼はなんと言うだろうか?  梓のように、漆黒に見惚れてしまうだろうか?  漆黒はとても恰好いいから……理久ももしかしたら、漆黒のことを好きになってしまうかもれない。  そうれなれば理久は、梓のライバルだ。  想像すると、可笑しくて……。    決して実現しない未来のことを、梓は、泣きそうになりながら、理久の腕の中で考えた……。          

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