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第33話

 理久(りく)が眠っている。  (あずさ)とたくさん話して疲れたのだ。  その寝顔を見ながら、元気そうで良かった、と梓は安堵した。  病院は清潔だし、ベッドはやわらかく、部屋の日当たりも良い。窓の向こうには自然が広がり、眺めも良かった。  きちんとした治療も望めるし、施設に居るよりも理久にとっては何倍も良い環境であることは間違いない。    梓に見せたのだ、と。  梓は不意にそのことに気付いた。    理久に会わせてほしいとお願いをしたとき、佐和山(さわやま)は「子どもはやはりバカだな」と言っていた。  その意味を、梓はいま思い知ったのである。    理久を……理久の住むこの快適な空間を梓に見せることで、梓の退路は完全に断たれた。  理久を生かすも殺すもおまえ次第なのだ、と。  それを梓に思い知らせるために、この面会は許可されたのだろう。  元より梓は、梓に振り当てられたこの役を降りるつもりはなかった。  理久は梓の半身だ。  親もなく、兄弟もなく、施設で育った梓と理久。  ひとりぼっち同士だった梓と理久は、お互いの存在のおかげで孤独ではなくなった。  けれど理久は病弱で。  いつも苦しんでいたから。    彼の、頼りないほど痩せた背を撫でながら、梓はいつも思っていた。  できることなら、代わってあげたい、と。  梓にとって理久は特別な存在で。  誰よりもしあわせになってほしい相手だったから。  梓の決意を担保に理久の平穏が守られるのならば、梓はそれだけで良かった。  さらり、と理久の髪を撫で、寝顔を見つめる。  どうか元気で。  ちゃんと治療をしてもらって、元気な体になって。  しあわせに、なってほしい。    祈りを込めて、梓は理久のひたいにキスを落とした。  そろそろ戻らなければならないだろうか。  何時までに戻れ、とは言われていないけれど、あまり長居をしていると、そのうちにこの病室に佐和山が踏み込んで来てしまうかもしれない。  そうなれば梓の嘘がばれてしまう。  理久に余計な心配はかけたくなかった。  名残惜しい気持ちが、梓の尻に根を生やしている。なかなか腰が上げられない。    梓が愚図愚図していると、不意に病室のドアがノックされた。  佐和山かと背を強張らせた梓だったが、入ってきたのは看護師だった。  ふと見れば理久の点滴が終了している。  理久が寝ているのに気付いた看護師が、静かな動作で支柱から点滴のパックを外すと、それを新しいものと繋ぎかえて、ポトポトと雫の落ちるスピードを調整し、梓へとにっこりと微笑んで頭を下げた。    その、薄水色の看護師の服の、胸のポケットにボールペンがたくさん刺さっている。  梓はそれを見て、ハッとひらめくものがあった。    ここは病院で……佐和山たちの監視もなく、梓が自由に行動できるのは、いまを逃して他にない。  梓は退室した看護師を追って廊下へ出た。  ボールペンとメモ用紙を貸してほしいとお願いすると、看護師が笑顔で頷いて、ナースステーションからすぐに持って来てくれた。  梓はそれを手に理久の病室へ戻ると、床頭台の上にもらったコピー用紙を広げ、理久に宛てた手紙を書いた。  何度もペン先を止めながら、それでもなんとか最後まで書き上げると、梓はそれを丁寧にたたんだ。  そして、もう一枚のコピー用紙で簡易の封筒を作ると、そこへ手紙を入れた。  梓は理久の枕元に置いてあったボックスティッシュから、一枚をそうっと抜き取る。  白いティッシュの上に置いたのは、ポケットに入れていた、タバコの吸い殻だった。  漆黒の喫っていたタバコ。  その吸い口に、一度、唇を寄せて。  梓はそれを、大事に大事にティッシュで包み、封筒の中へと入れた。  梓は立ち上がり、病室備え付けのタンスを順番に開けていった。  タオルや下着などがたくさん詰まっている引き出し。  その一番下に、理久の私服が数着だけあった。  梓も見覚えのある、使い古された、服が。    理久はいまは病衣を身にまとっているし、この私服は恐らく、退院のときぐらいしか着用しないだろう。  ここに入れておけば、この手紙が早々に見つかることはない。  梓は引き出しの一番底へと、そっと封筒を忍ばせた。  ベッド上で眠る理久を振り返る。  もう一度触れてしまうと、手が、離せなくなるような気がして。  梓は指を強く握り込むと、親友の顔を目に焼き付けた。 「理久。……しあわせになってね」    吐息の音だけで、囁いて。  梓は踵を返して、病室を後にした。    駐車場では、黒塗りの車が来たときと同じ位置に停まっていた。  助手席の若者が梓の姿を見つけ、パッと外に飛び出してくると、後部座席のドアを開いた。  梓が無言でそこに乗り込むと、タバコを咥えていた佐和山が、小さく鼻を鳴らした。 「お別れは済んだか」  淡白な口調で問われて、梓は「はい」とだけ応じた。  佐和山の指示で車が走り出す。  理久の居る病院がどんどんと遠ざかってゆき……たくさんある窓のうちのどれが理久の病室なのだろうか、と梓は無意識に未練がましく探していることに気づき、無理やりに窓から顔を背けた。  連れて行かれたのはタワーマンションだった。 「ここで親父がを囲ってるってのは柴野にも割れてんだ」  エレベーターを待っている間に、佐和山が梓へとここのマンション名を教えてきた。 「柴野にどこに住んでると聞かれたら、そう答えろ」 「……はい」  梓は頷いて、マンションの名前を頭に叩き込んだ。    エレベーターは、低層階用と高層階用に分かれているようで、佐和山は高層階用の箱に乗り込み、躊躇なく一番上のボタンを押した。  さほどの振動もなくエレベーターが上昇する。   「ちゃんと、仕込んでもらったのか」  横目で佐和山に問われて、梓の頬がかっと赤くなる。  ここには佐和山以外にも彼の舎弟が2人居るのだ。聞き耳をたてられているようで羞恥を覚え、梓は俯いて消えそうな声で「はい」と答えた。  梓、背中。  不意に、そんな叱責が耳に甦り、梓は思わず背筋を伸ばした。    ……空耳だった。  当然だ。漆黒が居るはずがない。  梓は唇を噛んで、湧き起こって来る熱いものをこらえた。  泣いている場合ではない。  梓はこの役割を……鬼頭組組長の愛人という役割を果たすために、淫花廓へと行き、漆黒に色々教えてもらったのだから……。    梓は背筋を伸ばしたまま、(まなじり)にちからを込めて、どんどんと移り変わってゆく階数表示のオレンジ色のランプを見つめていた……。           

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