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第43話
漆黒は底の窺えぬ男の瞳を、床に跪いたままで見つめた。
手持ちのカードなど、ここにはない。
使えるのは己の身だけであった。
何者であれば梓を救えるのか。
漆黒が男娼ならば、淫花廓の敷地から出ることはできない。
しかし、警察の身分であったとしても、恐らくは梓を助けに行くことなどできないだろう。
漆黒の言葉ひとつで、警察組織がすぐに動いてくれるはずもなかった。
警察は……これまで漆黒が身を置いていた警察という組織は、漆黒を捨て駒にしたのだ。
捜査をする、という名目で検挙するつもりもない淫花廓へと潜らせ、体面を整えた警察に対する失望が、漆黒の中には渦巻いていて。
そんな組織を頼ったところでなにになる、と苦い思いが舌の奥に絡みついている。
ではどうするべきか。
楼主は先ほど漆黒へとこう告げた。
漆黒なら、梓を助けるだろうと思った、と。
その意味するところはなにか。
楼主にとって、梓を保護することには価値がある、ということではないだろうか。
楼主は漆黒に、梓を助けるように仕向けたかったのだ。
「あんたにとって、梓を助けることには意味があるはずだ」
だから漆黒は、男へとそう言い放った。
この男を動かすことができれば、梓の救出に向かえるかもしれない。
ただの男娼では淫花廓 から出ることはできない。
しかし、ただの男娼でなくなれば……楼主にとって、使える駒になることができれば、漆黒は外界へと梓を迎えに行けるかもしれない。
漆黒の言葉を、男が唇の端で笑った。
「なんの話だか」
「いいや。あんたは俺に梓を助けるよう仕向けていたと言った。まさかただのボランティアじゃないだろう」
「おいおい。ひでぇ言い草だ。俺にだって情はある」
くつくつと喉を鳴らして、楼主が煙管 を咥えた。
そして、ふぅと白い煙を吐き出すと、眇めた目で漆黒を見下ろしてくる。
「俺はただ、あんなガキが死んじまうのは寝覚めが悪ぃと思っただけだよ」
鼓膜を震わせた男の声に、漆黒は数瞬、ポカンとした。
聞き間違いだろうか。
梓が死ぬ、とはどういう意味だ……。
唖然とする漆黒へと、楼主が眉を顰め、訝し気な表情を浮かべた。
「なんだその顔は……。手前 、まさか知らなかったんじゃねぇだろうな?」
怪訝に問われ、漆黒は首を横に振った。
「何の話だ……。あんたは何の話をしてるんだ」
「かぁ~っ! 手前 はこのひと月なにをしてたんだこの愚図 がっ。知らなかっただと? 道理で梓をあっさり見送ったはずだ」
楼主が苛立たし気に髪を掻き上げた。
そして、乱れた毛もそのままに、乱雑な仕草で立ち上がると、漆黒の肩をどんと蹴飛ばした。
本気のちからではなかったため、漆黒はバランスを崩したりはしなかった。
しなかったが、床に膝をついた姿勢から動くことができない。
「……梓は、鬼頭 の愛人の身代わりになるんじゃなかったのか?」
掠れた声で、漆黒は茫然と問いかけた。
楼主が蔑むように口角を歪め、小さく鼻を鳴らした。
「その通りだ」
「……なら、なぜ、死ぬなんてことになる」
「……漆黒。手前 、ぬるま湯に浸かり過ぎたんじゃねぇか? よく考えろ。梓が人質交換を全うしたとして、誰が得をする?」
出来の悪い生徒を見る眼差しで、男が漆黒へと問うた。
漆黒は、楼主の顔を凝視したままで、その意味を考えた。
梓が、鬼頭の愛人として柴野へ出向き、無事にその役目を終えるとき。それは、鬼頭組と柴野組が和睦交渉を結び、柴野が長沼組の傘下に入ることを意味する。
和睦交渉が成立すれば、鬼頭と柴野の小競り合いはなくなる。長沼組は、柴野が扱っていた薬物の売買ルートなどを手中に収めることができ、柴野の上納金が加わるため懐が潤う。柴野は柴野で、上手く立ち回れば鬼頭よりも良いポジションに就くことができ、好待遇は約束されたも同然で、損はしない。
翻 って鬼頭組はと言えば……柴野との日常的なドンパチがなくなるというだけで、この和睦交渉に旨味はないのだった。
そうだ。
鬼頭にとって、梓が愛人を上手く偽装したところで、得るものはほとんどない。
どちらかというと……。
例えば、梓が。
柴野組の不手際で、命を落としたとして。
それを理由に柴野を潰すことができる方が……組の利益にはなるのだ。
ちからで柴野の財産を奪いそれを上納すれば、長沼組とて鬼頭を処分したりはしないだろう。
なにせ、鬼頭には大義名分がある。
柴野に愛人を殺された、という大義名分が。
耳の奥で自身の鼓動がうるさいぐらいに響き、漆黒は首をぶるぶると振った。
「そんな……そんなバカな話が……」
「死ぬとわかってる子どもを手前 なら見捨てねぇだろう思ってた俺も阿呆だが、そもそもそんな話も聞き出せてなかったおまえも相当の間抜けだ。いいか、梓はな、愛人というよりは鉄砲玉だ」
「……鉄砲玉?」
「梓に命じられてることは、柴野の暗殺だ」
「……は?」
漆黒は、自分の耳がおかしくなったのかと思い、思わず問い返した。
そんな漆黒を睥睨し、男が煙管をひと口ふかせる。
「まぁこりゃああまりに無謀だってのは、鬼頭にもわかっちゃいる。ただの子どもがやくざなんて殺せやしねぇよ。命 取れりゃラッキーってだけだ。鬼頭にとっちゃ梓はそこらのガキだからな。柴野の連中から抗議されても、手前の愛人はともかく、梓なら切り捨てられる」
ふぅ、と唇から白い煙を吐いて、楼主が言葉を続けた。
「そこで二つ目の命令だ。柴野を殺せなかったときは、自殺しろ、ってな。恐らくは服毒だろう。柴野の領内で梓が死ねば、その責任は柴野のモンだ。鬼頭は正々堂々、柴野を攻撃できるってハラだな」
顎先を軽く掻いて、楼主は肩を竦め、もう一度漆黒の肩を蹴るとソファへと戻った。
「な、なぜだ!」
ゆったりとした動作で腰を下ろす男を睨みつけ、漆黒は噛みつくように怒鳴った。
「なぜ梓がそんな話を受ける!!」
俄かには信じがたいことだった。
しかし、梓の命が大人たちの手によって紙屑のように扱われている、ということが楼主の狂言ではないと……漆黒は梓とのやり取りを思い出しながら、悟った。
梓に……漆黒の協力者になってくれ、と話をしたとき。
できません、と少年は答えた。
嫌です、ではなく、できません、と。
梓はあのとき、すでに覚悟していたのだ。
柴野組へとやられた自分が、生きて戻ることはない、ということを。
「なぜだ! なぜ梓が!」
「うるせぇっ」
追いすがるように楼主の着物の裾を掴んだ漆黒へと、男が鋭い声で一喝した。
と、そのとき。
漆黒の背後で、バタン! と激しい勢いで扉が開いた。
「勝手をするんじゃないよっ!」
久しぶりに聞く気がする、般若 の声が響いて。
漆黒は、ぎこちない動きで顔を振り向けた。
そこには……。
痩身で小柄な少年がはぁはぁと肩を喘がせながら。
憎悪に歪んだ大きな瞳に、漆黒を映していて。
「おまえのせいだっ」
と、少年が叫んだ。
「おまえのせいで梓が死ぬんだっ」
掠れた声でそう怒鳴って。
ヒューヒューと笛のような音を喉から漏らした少年は。
そのまま、首元を両手で押さえて絨毯の上に蹲った。
その痩せた背に、般若と……彼にいつも付き従っている巨躯の男衆が駆け寄る。
少年の背を撫でながら、般若が鬼女の面越しに漆黒を見据え、甘い声で告げてきた。
「この子はね、理久 だよ。と言っても、きみがその名を知っているかは疑問だけれどね」
理久……。
その名には、聞き覚えがあった。
いつだっただろうか。梓が呼んでいた名前だ。
梓の親友で……家族も同然の存在だと。
その彼がいま。
這いつくばるように体を丸め。苦し気な呼吸を繰り返しながら……漆黒を睨みつけていた。
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