45 / 54
第44話
痩せた、小枝のような腕が、もがくように動いて。
ポケットから取り出した紙を、漆黒へと投げつけてきた。
ひらり、と舞ったそれは大した距離は飛ばずに、漆黒と理久のちょうど中間ぐらいの位置で床に落ちた。
理久の、涙を溜めた双眸が苦しみに歪んで。
ぜぇぜぇと喘ぐ薄い背を、般若の嫋やかな手が撫でていた。
漆黒は膝を滑らせて落ちた紙片ににじり寄ると、絨毯の上のそれをそっとを拾い上げる。
四つ折りの紙は、白く素っ気ないコピー用紙だった。
開いてみると、角の丸い、少し右肩上がりの文字が並んでいた。たぶん、初めて目にする梓の文字だ。
理久へ、という書き出しから、手紙は始まっていた。
『理久へ。
急に居なくなってごめんね。
心配をかけてごめん。
今日は久しぶりに理久と話せて嬉しかったよ。
理久には怒られるかもしれないけど……お願い事があります。
詳しい説明はできないし、なにをどう言えばいいのかわからないから、要件だけ書かせてね。
もう一枚入れているこの手紙を、理久が退院するときに、警察に届けてほしい。
僕に、好きなひとができたって話をしたよね?
その、僕の好きなひとが、いま、困っています。
本当の居場所じゃないところで生活をしないといけないから、すごくつらそうです。
僕は助けを求められたけれど、なにもすることができないから、断りました。
でも、よく考えたら、僕にもできることがひとつだけあったよ。
僕は……ごめんね、理久……僕は、きみが退院する頃には、多分、生きてはいないと思います。
最初からそういう約束だったから、それはもういいんだ。
僕は、理久と一緒に居れて、それだけですごく楽しかったけど……最後に好きなひとができて、恋というものを知れて、なんだかすごく……すごく、しあわせな気持ちになりました。
僕の勝手な片想いなんだけど、好きなひとに同じだけ好かれないのは苦しいけど、それでも僕は彼を好きになって良かった。
だから、僕にやさしくしてくれたあのひとに、恩返しをしたいんだ。
僕のこの行動が、本当に彼の役に立てるかはわからないけれど……他にできることはないから、取り敢えずぜんぶ残しておきます。
理久。
理久が怒ってる顔が目に浮かぶよ。
隣に居たら、絶対に叩かれてたね。
バカって怒鳴られて、ボコボコにされてたね。
理久。
僕の親友で、家族で……僕の一番大事なひと。
僕にはずっと、理久しか居なかったけど……最後に、理久と同じだけ好きなひとができたよ。
理久とあのひとが会ったら、理久はなんて言うのかなって想像すると、なんだか楽しくて、でもちょっと泣いちゃった。
理久。
しあわせでいてね。
体を治して、元気で、しあわせになってね。
僕はどこに居ても、理久のしあわせを祈ってます。
梓より』
かさり、と乾いた音を立てて、漆黒はもう一枚の紙を開いた。
そこには、梓が鬼頭組の佐和山と交わした約束の内容が、記されていた。
楼主の言った通り、梓は柴野組組長の暗殺を命じられていた。
致死量の毒の入ったカプセルを、奥歯の裏に仕込むのだ。
柴野は鬼頭の愛人である梓を必ず一度は抱くはずだ。
そのときに、カプセルを噛み割って、口移しで柴野へと与える。
柴野が死ねば梓には制裁が待っている。
しかし当の梓も口に毒を含んでいるため、その場で命を絶つこととなる。
三日経っても柴野のベッドの相手に呼ばれないときは、自殺しろと言われている。
あまり時間が経つと、和睦交渉が進んでしまうからだ。
僕が死んだら、犯人は鬼頭組のひとたちです、と佐和山から見聞きしたことを綴っていた文字の最後には、そう書かれていた。
『僕が死んだら、犯人は鬼頭組のひとたちです。
この手紙が証拠になるかはわかりませんが、犯人は鬼頭組のひとたちです。
僕は淫花廓の漆黒さんの協力者です。
漆黒さんは、鬼頭組や柴野組を逮捕したいと言っていました。
僕の死が、捜査のキッカケになるなら、使ってほしいです。
僕のこの情報が使い物になるなら、それは、漆黒さんの功績です。
どうか彼を、あそこから出られるようにしてください。』
手紙を握る漆黒の手が、ぶるぶると震えた。
梓はバカだ、とそう思った。
こんな手紙ひとつで、警察が動くわけがない。
梓はバカだ。
漆黒のために、自分の死を使おうとするなんて、大バカだ。
喉元を、熱い感情が塞いだ。
込み上げてくるものを飲み込もうとして、喉がひくりと痙攣した。
「なんで……逃げなかったんだ……」
掠れた声で、漆黒は誰にともなく問いかけた。
なぜ、梓は逃げようとしなかったのか。
漆黒に事情を話して……助けてくれと言わなかったのか。
死ぬための場所に向かおうとする車に……あんな、満ち足りた表情でなぜ乗れたのだ。
漆黒の唇を吸って。
ありがとうございました、なんて。
なぜそんなことが言えたのだ……。
手の中でぐしゃりと捩じれた手紙を、いつまでも離せずに。
漆黒は荒い呼吸に肩を上下させた。
「……あんたが、梓の逃げ道を、奪ったんだ」
漆黒よりもなお、苦し気な呼気を漏らしながら。
理久がぼろぼろと涙を落とした。
絨毯の上で、白い握りこぶしを震わせながら。
少年が振り絞るように漆黒へと告げた。
「あんたと……オレの、存在が……梓から逃げ道を奪ったんだ!」
ぜひゅ、ぜひゅ、と理久の喉がおかしな音を立てる。
「怪士 、酸素を」
理久の背を撫でていた般若が、巨躯の男へと短く命じた。
怪士は素早く動き、一度退室したかと思うとすぐにまた携帯酸素を持って戻って来た。
男がチラと楼主の方を確認する。酸素に火気は厳禁だ。心得ているのか、それとも理久が入ってきたときからだろうか、楼主は漆黒の知らぬ間に煙管 の火を消していた。
怪士がボンベのノズルを開き、鼻腔カニューラを般若へと手渡す。
般若はそれを理久へと装着しようとしたが、理久は、色のない指先でそれを振り払い、蒼白な顔で漆黒を見つめてきた。
「あ、梓は、オレをずっと見てきたから……オレがいつも、体調を崩す度に、あいつは、自分が健康なことを、負い目に感じてるとこがあって……」
切れ切れに言葉を発する唇は、徐々に紫へと変色してゆく。
「早くつけなって!」
般若が苛立った声をあげて、強引に理久の頭へとカニューラの輪っか部分を潜らせた。
鼻の下に押し当てられた酸素を、なんとか吸い上げて。
理久が目の淵から涙の雫をこぼした。
「お、オレが、梓を、追い詰めたんだ。オレを、ちゃんとした、病院に、かからせようと、思って……ど、どこにも、そんなこと、書いてないけど……絶対、そうに決まってる」
う~、と子どもがむずがるように、理久が唸った。
「お、オレ、あ、梓を、梓の命を、犠牲にしてまで、生きたくないよっ。け、健康な、体より、梓に生きててほしいよっ」
理久が四つん這いになり、ずるずると漆黒の方へと這い寄って来た。
唇からは荒い呼吸が漏れている。
酸素ボンベから続く薄いグリーンの管が、生き物のように絨毯の上をのたくった。
冷えた指が、漆黒の着物の襟元を掴んだ。痺れているのだろうか、その手にはほとんどちからが入っていない。
「梓は……あいつは……オレが寝込むたびに、オレの役に立てない自分を責めてた。だ、だから、お、オレのために、この話を受けて……そこであんたと会ったんだ。好きな、ひとが、できたって。梓、言ってたよ。やさしいひとだって、言ってた。オレと……あんたの役に立つために、梓は…………」
細かな震えを見せる手が、ずるりと滑りそうになって。
漆黒は咄嗟に、理久の手を包んだ。
てのひらの下に、細い骨の感触がした。
理久の、涙で濡れた目が、漆黒を間近で見上げて。
乱れた息の合間で、彼がか細く囁いた。
「……梓を、たすけてよ……」
がくりと、脱力したように頭を下げて。
ちからなく理久が繰り返す。
「梓を、たすけて。頼むよ。頼みます。お願いだから、梓を助けてくれよ……」
理久の背後から伸びてきた太い腕が、小さな体を床から抱き上げた。
漆黒の着物を掴んでいた理久の指が、大した抵抗もなく離れる。
その細い指先を追うように、漆黒は顔を上へと向けた。
怪士面を着けた男衆が、両手で少年の体を抱いていた。
不意に、漆黒の視界に、ほっそりとした黒い紬 姿の般若が割り込んできた。
「どうするんだい?」
軽く顎を上げて漆黒を睥睨した彼が、そう問うてくる。
「きみの正体なんて、僕には関係ないけれどね。子どもにここまで言わせておいて、まさか知らん顔はないだろう?」
「般若。控えてろ」
楼主が低い声でぴしゃりと般若を叱った。
カツカツと無意味に煙管の雁首を灰皿に当てている男へと、顔を巡らせて。
般若がふんと鼻を鳴らす。
そんな般若を一瞥し、楼主は肩を竦めた。
「梓のいまの境遇は、梓自身が選んだことだ。助けたいと思うのは手前 らの勝手で、それを梓が望んでいるとは限らねぇ。般若。手前 のそれは単なる同情だ。子どもの頃に助けてもらえなかった自分のトラウマを、梓に投影してるだけの自己憐憫だ」
楼主の厳しい言葉に、般若の背が強張った。
彼の、体の横で握り締められた手が、にわかに震え出す。
「いくらあなたでも怒りますよ」
割り込んできた低音の声は、怪士のものだった。
理久をその腕に抱いている男は、全身からゆらりと怒気を漲らせて、一歩を楼主の方へと踏み出した。
「怪士。いい」
ひらり、とてのひらを翻して、楼主に叱咤された般若本人が、怪士を止めた。
「この男の性格の悪い物言いに、いまさら腹も立たないよ」
虚勢混じりに、そう言って。
般若が肩からふぅとちからを抜いた。
漆黒は怪士の腕の中の少年を窺い見る。
理久は、青白い瞼を閉ざしてぐったりとしていた。
梓のために、無理を押してこんな場所まで来たのだろう。
いや。もしかしたら、般若と怪士が迎えにいったのかもしれない。こんな子どもが淫花廓の情報など掴めるはずもないのだから、きっとそうなのだろう。
漆黒は改めて楼主の方へと膝を向け、背筋を伸ばしてきれいな正座の形になった。
男娼を、商品と言って憚らない男のことだ。
慈善では決して動かない。
この男に旨味がなければ、行動を起こしてはくれない。
梓を助けることでこの男が得るものとはなにか。
それは、漆黒の存在だ。
警察の犬だった漆黒が、楼主へと頭を下げ、今度は淫花廓の犬となる。
漆黒の方から助力を乞わせて恩を売る。
理久をわざわざここへ連れてきたのも、漆黒へ発破を掛けるためなのだろう。
警察組織ではなく、漆黒個人に恩を売ることで、漆黒が警察に戻った後も楼主は警察内部の動きを把握することができるのだ。
淫花廓がいつまでも警察組織の庇護を受けられるわけではない。警察を牛耳っている現在の重鎮たちが退けば、風向きが変わるかもしれない。そうなったときのために、使える犬を作っておく。
警察のスパイとして淫花廓に潜ったはずの漆黒が、淫花廓の犬として何食わぬ顔で警察へと戻り、二重スパイになるということだった。
しかし、それでもいい、という気分になった。
漆黒はどうせ、警察からは体よく切り捨てられた存在だ。
そんな組織に義理立てなどする必要はない。
いま、漆黒が欲しているのは、梓を救うことができるちからだ。
そしてそのちからを持っている人間が、目の前に居る。
「楼主。俺はあんたの駒になる。あんたのために動く、駒になる。だから頼む。ちからを貸してくれ」
「ふん……。警察はどうすんだ、刑事さん」
「俺は、淫花廓の男娼 だ。あんたの持ち物だ。あんたの好きに使ってくれ」
正座のまま男へ向き合う漆黒へと、楼主がニヒルな笑みを浮かべてみせた。
「たったひと月前に知り合ったガキのために、これまでの立場を捨てんのか?」
漆黒の内面を見通すような、鋭い双眸がひたとこちらへ据えられる。
カツン、と煙管の先端がまた灰皿を打った。
漆黒は静かに楼主の目を見返して、きっぱりとした声音で答えた。
「俺は梓を愛してる。気付くのが遅すぎたが……俺の持てるものすべて擲 っても、いまはあいつを助けたい。頼む。梓を取り戻したら……あんたのために動くと約束する」
楼主が片眉を跳ね上げ、軽い動作で立ち上がった。
「普段なら念書を書かせるとこだが……いまは時間がねぇな。いつまでもそうしてねぇで、さっさと立て。着替えるぞ」
漆黒へと顎をしゃくった男が、扉の方へと歩き出した。
漆黒もすぐさま立ち上がり、着流しの楼主の背を追いかけたのだった。
ともだちにシェアしよう!