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第45話
一刻も早く、と焦れる漆黒とは裏腹に、楼主は落ち着き払った足取りで別の部屋に漆黒を連れて行った。
そこは、様々な衣類の置かれた部屋で、整然とハンガーラックにぶら下がっているものは、すべて洋服であった。
ゆうずい邸の男娼は日常的に着物を着用している。
しかし、いつなん時であっても客からのオーダーに応じられるよう、あらゆるジャンルの服が……それこそ、コスプレと呼ばれるようなものまでもが……ひと通り取り揃えられているのだった。
「スーツだ」
短く、楼主が口にした。
動いたのは般若だった。
部屋の中央に置かれている台の上に、ラックから取り出したスーツを無造作に数着、ポイポイと置いてゆく。
適当に選んでいるように見えて、サイズや色などは考慮しているようで、ある程度を選別すると、今度は楼主と漆黒の体にそれぞれ押し当て、
「これとこれ」
と、男たちへと手渡して来た。
楼主は特になにも言わずに、おもむろに枯野色の着物を脱ぎ、般若の選んだスーツへと着替え出した。
漆黒も慌ててそれに倣う。
楼主が光沢のあるグレーのスーツを身に纏うのを、この男の和装しか見たことがなかった漆黒は、思わずまじまじと眺めてしまった。
着流しに煙管、という普段のスタイルもおよそカタギではあり得ない妙な迫力があったが、スーツ、という日常の匂いの強い服装になるとそれは尚更際立って、この男はいったい何者なのかという疑問が湧き起ってくる。
きっちりとネクタイまで締めた男が、漆黒を見て可笑し気に目を細めた。
「似合うじゃねぇか」
明らかな厭味に、漆黒は肩を竦める。
「ちょっと派手じゃないか?」
横目で般若を睨んでそう問うと、般若が小さく鼻を鳴らした。
「きみは軽薄なぐらいでいいんだよ」
どん、と胸を突き飛ばす勢いで伸びてきた般若の手が、漆黒のスーツの胸ポケットにハンカチーフを捻じ込んで来る。
それは、スーツの裏地と同じオレンジ色をしていた。
かっちりとした印象の楼主とは違い、漆黒は大きく胸の開いた柄シャツに、モスグリーンのベストとジャケット、ベージュのスラックスを宛がわれている。
どこのイタリアの伊達男だ、と言わんばかりの恰好であったが、さすが淫花廓、生地からして高級なスーツであることが知れた。
「よし。般若。怪士 を借りるぜ?」
「まったく……ひとのものを軽々しく使ってくれるね」
「おまえのものは俺のもの同然だ。手前だって、梓を助けてぇんだろ?」
片頬で笑った楼主をひと睨みした般若が、つんと顔を背けた。
そのとき、ノックの音とともにドアが開き、いつの間に着替えたのか黒いスーツに身を包んだ怪士が現れた。鍛え上げた肉体はボディーガードかSPかという出で立ちだ。
腕に抱いていた理久は、いまは居ない。別室で寝かしてきたのだろう。
「面は必要ねぇ。置いていけ」
楼主の言葉を受けて、怪士が能面を外す。無骨な印象だが、中々の男前だ。下働きなどせずとも、ゆうずい邸の男娼でもやっていけそうであった。
「般若」
髪を軽く整えた楼主が、般若を呼んだ。
怪士の隣へと歩み寄っていた般若が、男を振り返る。
「アザミの準備をしておけ」
下された、楼主の命令に。
怪士がなぜか険しい表情を浮かべた。
なんのことかまったくわからない漆黒を余所に、怪士が低い声で、
「聞いてません!」
と噛みついた。
「いま言った」
男は涼しい顔でそう応じると、般若へと無言で目を向けた。
「……なるほどね」
般若が嘆息混じりに呟いて、一度天井を仰いだ。
「僕に、梓のことを気にかけさせたのは、いざというときに僕を使うためだった、というわけだね」
「梓を助けたいと言ったのは手前 だ。俺が小細工したわけじゃねぇよ」
「どうだか……。あんたの手の上で踊るのはしゃくだけど……まぁいいよ。漆黒。きみは今後、僕の奴隷だからね」
急に細い指を突き付けられて、漆黒は「はぁ?」と頓狂な声を漏らした。
「なんの話だ。なんで俺がおまえの奴隷になるんだよ。意味がわからん」
「ふふ……きみは僕に借りを作ったというわけさ」
妖艶な含み笑いを、能面の下でくぐもらせて。
般若が怪士の腕にするりと手を絡めた。
「早く帰っておいで。ひと晩限りの、アザミの復帰だ。おまえが居ないと僕は、蜂巣 に入れないからね」
「……アザミさま……」
「そんな顔をするんじゃないよ。儲けはちゃんと僕の稼ぎに付けてもらう。そうですよね、楼主?」
「がめつい男娼だな」
「あなたの教育の賜物ですよ」
般若が甘く笑って、白い手をひらりと振ると先に部屋を出て行った。
「……なんの話だったんだ?」
ひとり状況が把握できずに、漆黒は楼主へと問いかける。
「手前 は俺の犬だけじゃ済まなくなったって話さ。まぁいずれわかる。行くぞ」
楼主が顎をしゃくって、漆黒たちを促した。
ゆうずい邸の裏口から外へ出ると、雨はまだ降り続いていた。
そこでは一台の車が漆黒たちを待っていて、楼主は当然のようにそれに乗り込んだ。
翁 面を着けた男衆が、特になにを言うでもなくハンドルを握っている。
怪士が助手席に、楼主と漆黒が後部座席に収まると、車は静かに動き出した。
向かった先は、普段漆黒たち男娼が行くことのない、物資管理庫だった。
蜂巣よりも随分と大きなその倉庫の鉄の扉を、怪士がガラガラと開ける。
立ち並ぶ棚の隙間を縫って、楼主が部屋の奥へと進んだ。
壁際には小さな長方形のパネルが付いており、楼主がそこへてのひらを翳すと、微かな電子音と共に壁だと思っていた場所が突然開いた。
「来い」
楼主が漆黒を促し、開いた空間へと足を踏み入れる。
漆黒はきょろきょろと周囲を見ながらそれに続いた。
コツコツと靴音を響かせながら、下へと伸びる階段を下ってゆく。
階段は、地下通路へと繋がっていた。
さながら地下鉄のホームだ、と漆黒は思ったが、その感想は間違ってはおらず、平坦なホームよりも下がった場所に、線路が通っているのが見えた。
「普段は物資の運搬に使っている」
不意に、楼主がそう口を開いた。
なるほど、と漆黒は得心する。
淫花廓は非日常を演出する空間だ。それゆえに、淫花廓御用達の仕立て屋や和菓子屋などの車が入って来ることはあっても、日用品を運ぶ業者の車などは見たことがなかった。
男衆たちが細細と買い出しに行っているかとも思ったが、そう頻繁な出入りはなかったため、秘密の通路があるのではないか、と以前より漆黒は考えていたのだった。
こんなところにあったのか、と思うと同時に、まさか線路まであるとはという驚きもあり、漆黒はホームに立つ男をつい凝視してしまう。
「秘密の通路があるとは思っていたが……これほどとは思わなかった」
感嘆混じりに男へそう言えば、楼主が唇の端に嘲笑を浮かべた。
「淫花廓は橋一本で外界と繋がってるだけの陸の孤島だ。災害時のことを考えりゃあ当然の設備だろうが」
スーツのポケットを探って、珍しくもタバコを取り出した男の横顔を、漆黒は意外な思いで見つめた。
有事の際に男娼たちの命をまもるため、このような大掛かりな通路を整備しているというのだろうか。
この男は……男娼を商品と称して富を稼ぎ、男衆たちを統制して手足のように使っているこの男は……けれどその実、ちゃんとここで働く者たちのことを考えているのかもしれなかった。
それともただ単に、日頃の効率と、いざというときに我が身をまもるためだけに作った設備なのかもしれないが。
楼主の唇がタバコを咥えると、怪士がすぐにライターの火を差し出してきた。そうしているとまるで、やくざの親分とその舎弟だ。
ふぅ、と紫煙を吐き出した男が、タバコの箱を漆黒の方へ向けてくる。
漆黒はそれをてのひらで断り、暗い地下通路の奥へと目をやった。
さほど待つこともなく、ガタンガタンと音が聞こえ、トロッコ列車がライトを光らせながら姿を現した。
驚いたことに、運転席にいる男も能面姿の男衆である。
ゆるやかに止まった列車に、楼主が最初に乗り込んだ。
漆黒もすぐに後に続いた。
梓は無事だろうか。
まだ柴野の元へは送られていないだろうか。
自ら早々に命を絶つような真似はしていないだろうか。
梓の顔を脳裏に思い浮かべ、湧き上がって来る焦燥に耐えながら、漆黒は静かにこぶしを握り締めたのだった。
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