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第46話
「よし、いいぞ」
と言われて梓は口を閉じた。
奥歯に、小さなカプセルを仕込まれたのだった。
一度、佐和山に連れられて鬼頭修司の元を訪れた際に、梓は歯を削られていた。
その後淫花廓に戻った時、梓の頬や唇には痣や傷が散っていたから、誰にもそれを気付かれることはなかったけれど、こうして細工がしやすいようにと、奥歯の一部に小さな穴を開けられたのだ。
「うっかり噛まないように気を付けろ」
感情のない爬虫類のような佐和山の目が、梓を無感動に映してそう言った。
梓はそれにこくりと頷き、唇を引き結ぶ。
このカプセルを噛み割ったら、中に仕込まれている毒物が口の中に広がり、梓は命を落とす。
本当は、柴野組の組長のベッドに侍るときに、口移しで飲ませろと言われていた。
けれど、ひとを殺すのは恐ろしい。
たとえ相手がやくざであったとしても。
梓のせいでひとが死ぬのは恐ろしい。
だから梓は最初から、自分だけにしておこうと、思っていた。
柴野を殺せない場合は、自殺しろと言われていたから。
梓ひとりの命で、事態が恙 なく治まるならばその方が良かった。
「来い」
短く命じられ、スーツ姿の男の後を追う。
佐和山が向かった先には、鬼頭修司が居た。
鬼頭は、リボンタイをして正装した梓を見て、軽く目を細めた。男の、指輪をたくさん嵌めた手が伸びてきて、梓の肩を抱いてくる。
梓は鬼頭とともに、黒塗りの車へと乗り込んだ。
男のがっしりとした指が、戯れに梓の頬を撫でた。
「怖いか?」
笑いの滲む声で問われて、梓は「いいえ」と答えた。
「いい度胸だな」
鬼頭の手が、梓の頭を引き寄せる。
梓は男の胸に上体を預ける形となった。
助手席の佐和山が、チラとこちらへ視線を流してくるのが見えた。
ペットでも撫でる手付きで、鬼頭が梓の髪にてのひらを滑らせている。
梓が、真実鬼頭の愛人に見えるように、と。男の演技は既に始まっているのだと梓は理解した。
梓は抗わずに男の胸にもたれ……窓を叩く雨粒を見つめ続けた。
ふと、淫花廓で別れた漆黒のことを思い出す。数時間前のことなのに、もう懐かしい。
漆黒が、別れを惜しむように窓に手をついて……梓を呼んで車を追ってくれたのが、梓からも見えていた。
最後に、漆黒に抱いてもらえて良かった。
可愛いな、梓、と囁かれて。
やさしい口づけをしてもらえた。
梓はしあわせだ。
もう思い残すことはない。
そう、思うのに。
もう一度会いたい、と、梓の中の、我儘な梓が叫んでいた。
全然足りない。
もっと抱いてほしい。
もっとキスをしてほしい。
もっと……愛してほしい。
梓はその声から、無理やりに耳を塞いだ。
たとえば梓に、先があったとしても。
漆黒には愛してもらえないだろう。
漆黒が好きなのは、涼香といううつくしい女性で。
梓があのまま淫花廓に居たとしても、いずれ漆黒が涼香と手に手を取り合って、笑顔でゆうずい邸を出てゆくのを見送る羽目になっただろうから。
漆黒が彼の好きなひとと結ばれるところを、見なくて良かった、と。
そう思うのが正解なはずだと、梓は自分に言い聞かせた。
梓がこの役目を全うすれば……理久が、あの手紙を警察に届けてくれれば……漆黒は、警察に戻れるだろうか。
梓が役に立てるのならば、梓はそれだけでいい。
……それでも理久には、激怒されるだろうけど。
理久。
梓の親友。梓の半身。
いつも、病気に苦しんでいた理久を見るのが、つらかった。
背をさするだけで、他に何もできない自分が嫌だった。
梓が、この身代わりの話を受けたとき。
梓が望んだのは、理久の生活の保障だった。
施設では、碌に受診もさせてもらえなかったから。
ちゃんと治療をしてもらって。
健康な体を手に入れて。
理久が、しあわせになってくれれば。
それで梓だってしあわせになれるのだ。
理久のことを考えると、涙が出そうになってしまうから。
梓は頭の中から、理久と漆黒の顔を追い出した。
雨粒がバラバラと降って来る。
梓の代わりに泣いてくれているのだろうか。
打ちつける雨音に耳を澄ませながら、梓は、鬼頭の腕の中で目を閉じた……。
車は、とある外資系の高級ホテルの前で停まった。
鬼頭に肩を抱かれたまま降車した梓は、男に連れられるままにロビーを抜け、エレベーターに乗った。
佐和山の舎弟が、フロアボタンの下にカードキーを翳した。
最上階がレストランフロアで、そのすぐ下の階が、オレンジ色に点灯する。
エレベーターは静かに上昇した。
「柴野は来てんのか」
鬼頭が佐和山に問いかけると、佐和山が淡々と頷いた。
「はい」
「しかし親父も豪勢なことだな。わざわざこんな場所抑えるとはなぁ。そんなに柴野を手に入れてぇかねぇ?」
「柴野は華僑とのパイプが強いですからね」
佐和山の返答に、鬼頭が小さく鼻を鳴らす。
目当てのフロアに到着すると、エレベーターホールにはスーツ姿の男が2人居て、鬼頭に向かって頭を下げてきた。
それにぞんざいに手を振って、鬼頭がゆったりと廊下を歩く。
「梓」
不意に、低く名を呼ばれた。鬼頭にそう呼ばれるのは初めてのことで、梓は驚いて男を仰いだ。
「せいぜい柴野に可愛がってもらえ。俺の役に立つよう頑張れよ」
意味深に、囁かれて。
梓はこくりと頷いた。
丸まってしまいそうな背中に、ちからを込めて。
綺麗な姿勢を心掛けながら、梓は歩いた。
鬼頭の役に立ちたいのではない。
理久と……漆黒のために、この体を使おうと決めたのだ。
角部屋の前で佐和山が足を止め、コッコッコッとリズミカルにドアをノックした。
扉の向こうにひとの気配がし、ほんの僅か、それは内側に開かれた。
隙間から、ガタイの良い男が目を覗かせ、佐和山と鬼頭を確認すると、大きく扉を開いて、迎え入れてきた。
梓は、緊張で竦みそうになる足を無理やりに動かして、室内へ入った。
入り口からすぐの部屋は、応接間のようになっており、中央のテーブルの周りにコの字型に配されたソファには、恰幅の良い男がひとりと、すらりとした肢体の梓よりも年上と思われる青年がひとり、座っていた。
青年が素早く立ち上がるのとは逆に、鬼頭が男の正面に腰を下ろす。
「よぅ」
と、柴野が軽く片手を挙げて挨拶を寄越す。
鬼頭はそれを黙殺し、鋭い視線を青年へと送った。
「そいつか」
言いながら、鬼頭がタバコを咥えた。
佐和山がすぐに動き、ジッポライターの火を近付ける。
ふぅと紫煙を吐き出した鬼頭が、シガレットケースを柴野へと差し出した。
柴野が軽く眉を上げ、一本を摘まみ上げて唇に挟む。すると佐和山が同じようにして柴野のタバコにも火を点けた。
梓は佐和山の視線に促され、青年と並んで立たされた。
青年も緊張しているようで、お互いに表情は硬い。
「おい」
横柄な声に、青年がハッと顔を上げた。柴野が彼へと顎をしゃくり、
「脱げ」
と短く命じた。
梓がぎょっとしていると、鬼頭が「梓」と名を呼んだ。
「おまえも脱げ。なにも仕込んでないところを、柴野さんに見てもらえ」
冷え冷えとした声で促され、梓は思わず鬼頭と柴野を交互に見た。
こんな……男たちが何人も居る前で脱がなくてはならないのか。
梓が戸惑っている間に、青年がバサッと上の服を脱ぎ捨てた。
「さっさとしろ」
鬼頭に急かされて、梓は慌ててシャツのボタンに手を掛けた。
「随分と物慣れない子だ」
柴野が梓の様子を、皮肉気にそう評した。
「いつまでたっても初々しいのが気に入ってね」
紫煙をくゆらせながら、鬼頭がそう応じる。もたもたしていたら、梓が替え玉だとバレてしまうのではないかと、梓は緊張で強張る手を必死に動かし、シャツに続いてキュロットタイプの下も脱いだ。
青年が靴と靴下を捨て去り、先に全裸になる。
梓もそれに倣い、一糸まとわぬ姿になった。
「そこに手をついてください」
柴野の舎弟に言われて、青年がテーブルに手をついた。
「あなたも」
その指示は梓にも向けられ、梓も青年の隣で同じ格好をする。
「では失礼します」
そう言われたかと思うと、不意にぬるりとオイルを纏った指が、梓の中に入ってきた。
「えっ、なっ、なにっ」
驚いて振り返ると、スーツの男が梓の背後に膝をつき、後孔を探っていた。
青年の方は、鬼頭組の男が同様に彼の中に指を挿入している。
「梓。大人しくしていろ」
鬼頭に窘 められ、梓は顔を元に戻し、羞恥に耐えた。
調べてもらう、というのはこういう意味かと理解する。
男の指が、無遠慮に肉筒を往復する。
二本の指がぬちゅぬちゅと内側を隈なく這い回り、ついでのように前立腺を擦り立ててきた。
昨日まで抱かれ続けた体だ。
容易にそこはほころんで、男の指を引き絞る動きを見せた。
梓は唇を噛んで、漏れそうになる吐息をこらえた。
奔放な喘ぎを漏らしたのは、青年だ。
「んあっ、あっ、そこぉっ」
ビクビクと腰を揺らしながら、青年が下半身を震わせた。
「おいおい。はしたないな。鬼頭さんに呆れられてるぞ」
喉奥で笑いを漏らした柴野が、青年へと揶揄を飛ばし、次いで鬼頭を窺うように見た。
「すいませんね。毎晩可愛がってるもんで。それにしてもそちらさんは……何というか、慣れてませんな」
「俺は手前 だけで可愛がる性質 でね。人前ですることに慣れておらんのですよ」
二人の吐き出す煙が、部屋に広がってゆく。
漆黒の喫うタバコと銘柄が違うことが、いまは救いだった。
こんな状況で愛したひとを思い出しても、つらくなるだけだ。
梓は、わざとのように前立腺を嬲って来る無遠慮な指に、快感を引きずり出されながらも声を噛み殺した。
くちゅり……と水音を立てて、ようやく男の指が出てゆく。
梓はホッと息を吐いた。
ぐったりとテーブルに顔を伏せた梓の耳元で、不意に柴野組の男が囁いた。
「ガキのくせに、いやらしい孔だな」
ハッとして瞼を上げると、男が梓の目の前で、淫靡に濡れた指をぬちゅぬちゅとこすり合わせた。
梓の耳朶が羞恥の色に染まる。
身体検査は、まだ終わったわけではなかった。
梓と青年はその場で膝をつくように命じられた。
罪人のように絨毯の上に膝を折ると、顎を掴んで仰のかされる。
「口を開けろ」
と、柴野が言った。
梓は、ビクっと体が跳ねそうになるのをなんとかこらえ、横目で鬼頭の方を見た。
鬼頭が軽く顎を揺らして、頷く。
大丈夫なのだろうか。
口を開けても、大丈夫なのだろうか。
カプセルは小さなものだし、上の奥歯に仕込まれているので、パッと見はわからないはずだ。
梓の横では青年が平然とした様子で、鬼頭組からの改めを受けている。
梓がおずおずと口を開くと、舌を掴まれ、引きずり出された。
そして、口蓋や舌の裏を指で探られる。
歯茎などにも男の指は及んで、カプセルを潰されやしないかと梓は冷や冷やした。
ひと通りを確認すると、男の指は出て行った。
梓の脱いだ服は、べつの男によって検分されており、それが済むとようやく服を着ることがゆるされた。
これで、人質交換は成立したのだろうか。
梓はこれから、柴野に引き取られ、彼の慰み者として過ごさなくてはならない。
耐えられるだろうか、と、ふとそんな疑問が頭を掠めた。
梓は、柴野に抱かれることに耐えられるだろうか。
二日前までの梓なら、たぶん、耐えられた。
鬼頭組の男たちに汚され、櫨染 に抱かれていた梓ならば、柴野組でどんな扱いを受けようと、柴野の寝室に呼ばれるまでは耐えることができただろうと思う。
けれど昨夜、漆黒に抱かれて……。
梓の体は、しあわせで満たされてしまったから……。
このしあわせを、よごされてしまうのなら。
いま、死んでしまいたい、と。
梓は、そう思ってしまった。
漆黒のことだけを、覚えておけるように。
いま、死んでしまいたいと。
自分の中から湧き上がってくる誘惑は、途方もなく甘くて。
理久のことはどうなるんだ、梓が役目を果たすことなく自殺したら、理久も病院を追い出されてしまうかもしれない、と叫ぶ理性を、封じ込めようとしてくる。
梓が死んでいいのは、柴野の懐に入ってからだ。
それはわかっている。
よく、わかっている。
けれど。
漆黒に、抱かれた体を。
愛されているかもしれないと、錯覚するほどにやさしく抱かれた体を。
汚されてしまうのは、つらすぎて。
梓は舌先で奥歯の裏を探った。
これを噛み砕けば。
梓は楽になる。
解放されるのだ。
梓は、ころりと、口の中でカプセルを転がして……。
それに、歯を、当てた……。
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