47 / 54

第46話

「よし、いいぞ」  と言われて梓は口を閉じた。  奥歯に、小さなカプセルを仕込まれたのだった。    一度、佐和山に連れられて鬼頭修司の元を訪れた際に、梓は歯を削られていた。  その後淫花廓に戻った時、梓の頬や唇には痣や傷が散っていたから、誰にもそれを気付かれることはなかったけれど、こうして細工がしやすいようにと、奥歯の一部に小さな穴を開けられたのだ。 「うっかり噛まないように気を付けろ」  感情のない爬虫類のような佐和山の目が、梓を無感動に映してそう言った。  梓はそれにこくりと頷き、唇を引き結ぶ。    このカプセルを噛み割ったら、中に仕込まれている毒物が口の中に広がり、梓は命を落とす。  本当は、柴野組の組長のベッドに侍るときに、口移しで飲ませろと言われていた。  けれど、ひとを殺すのは恐ろしい。  たとえ相手がやくざであったとしても。  梓のせいでひとが死ぬのは恐ろしい。  だから梓は最初から、自分だけにしておこうと、思っていた。  柴野を殺せない場合は、自殺しろと言われていたから。  梓ひとりの命で、事態が(つつが)なく治まるならばその方が良かった。 「来い」  短く命じられ、スーツ姿の男の後を追う。  佐和山が向かった先には、鬼頭修司が居た。  鬼頭は、リボンタイをして正装した梓を見て、軽く目を細めた。男の、指輪をたくさん嵌めた手が伸びてきて、梓の肩を抱いてくる。  梓は鬼頭とともに、黒塗りの車へと乗り込んだ。  男のがっしりとした指が、戯れに梓の頬を撫でた。 「怖いか?」  笑いの滲む声で問われて、梓は「いいえ」と答えた。 「いい度胸だな」  鬼頭の手が、梓の頭を引き寄せる。  梓は男の胸に上体を預ける形となった。  助手席の佐和山が、チラとこちらへ視線を流してくるのが見えた。  ペットでも撫でる手付きで、鬼頭が梓の髪にてのひらを滑らせている。  梓が、真実鬼頭の愛人に見えるように、と。男の演技は既に始まっているのだと梓は理解した。    梓は抗わずに男の胸にもたれ……窓を叩く雨粒を見つめ続けた。  ふと、淫花廓で別れた漆黒のことを思い出す。数時間前のことなのに、もう懐かしい。  漆黒が、別れを惜しむように窓に手をついて……梓を呼んで車を追ってくれたのが、梓からも見えていた。  最後に、漆黒に抱いてもらえて良かった。  可愛いな、梓、と囁かれて。  やさしい口づけをしてもらえた。  梓はしあわせだ。  もう思い残すことはない。    そう、思うのに。    もう一度会いたい、と、梓の中の、我儘な梓が叫んでいた。    全然足りない。  もっと抱いてほしい。  もっとキスをしてほしい。  もっと……愛してほしい。  梓はその声から、無理やりに耳を塞いだ。  たとえば梓に、先があったとしても。  漆黒には愛してもらえないだろう。  漆黒が好きなのは、涼香といううつくしい女性で。  梓があのまま淫花廓に居たとしても、いずれ漆黒が涼香と手に手を取り合って、笑顔でゆうずい邸を出てゆくのを見送る羽目になっただろうから。  漆黒が彼の好きなひとと結ばれるところを、見なくて良かった、と。  そう思うのが正解なはずだと、梓は自分に言い聞かせた。  梓がこの役目を全うすれば……理久が、あの手紙を警察に届けてくれれば……漆黒は、警察に戻れるだろうか。  梓が役に立てるのならば、梓はそれだけでいい。  ……それでも理久には、激怒されるだろうけど。  理久。  梓の親友。梓の半身。  いつも、病気に苦しんでいた理久を見るのが、つらかった。  背をさするだけで、他に何もできない自分が嫌だった。  梓が、この身代わりの話を受けたとき。  梓が望んだのは、理久の生活の保障だった。  施設では、碌に受診もさせてもらえなかったから。  ちゃんと治療をしてもらって。  健康な体を手に入れて。  理久が、しあわせになってくれれば。  それで梓だってしあわせになれるのだ。  理久のことを考えると、涙が出そうになってしまうから。  梓は頭の中から、理久と漆黒の顔を追い出した。  雨粒がバラバラと降って来る。  梓の代わりに泣いてくれているのだろうか。  打ちつける雨音に耳を澄ませながら、梓は、鬼頭の腕の中で目を閉じた……。    車は、とある外資系の高級ホテルの前で停まった。  鬼頭に肩を抱かれたまま降車した梓は、男に連れられるままにロビーを抜け、エレベーターに乗った。  佐和山の舎弟が、フロアボタンの下にカードキーを翳した。  最上階がレストランフロアで、そのすぐ下の階が、オレンジ色に点灯する。  エレベーターは静かに上昇した。 「柴野は来てんのか」  鬼頭が佐和山に問いかけると、佐和山が淡々と頷いた。 「はい」 「しかし親父も豪勢なことだな。わざわざこんな場所抑えるとはなぁ。そんなに柴野を手に入れてぇかねぇ?」 「柴野は華僑とのパイプが強いですからね」  佐和山の返答に、鬼頭が小さく鼻を鳴らす。    目当てのフロアに到着すると、エレベーターホールにはスーツ姿の男が2人居て、鬼頭に向かって頭を下げてきた。  それにぞんざいに手を振って、鬼頭がゆったりと廊下を歩く。 「梓」  不意に、低く名を呼ばれた。鬼頭にそう呼ばれるのは初めてのことで、梓は驚いて男を仰いだ。 「せいぜい柴野に可愛がってもらえ。俺の役に立つよう頑張れよ」  意味深に、囁かれて。  梓はこくりと頷いた。  丸まってしまいそうな背中に、ちからを込めて。  綺麗な姿勢を心掛けながら、梓は歩いた。  鬼頭の役に立ちたいのではない。  理久と……漆黒のために、この体を使おうと決めたのだ。  角部屋の前で佐和山が足を止め、コッコッコッとリズミカルにドアをノックした。  扉の向こうにひとの気配がし、ほんの僅か、それは内側に開かれた。  隙間から、ガタイの良い男が目を覗かせ、佐和山と鬼頭を確認すると、大きく扉を開いて、迎え入れてきた。    梓は、緊張で竦みそうになる足を無理やりに動かして、室内へ入った。  入り口からすぐの部屋は、応接間のようになっており、中央のテーブルの周りにコの字型に配されたソファには、恰幅の良い男がひとりと、すらりとした肢体の梓よりも年上と思われる青年がひとり、座っていた。  青年が素早く立ち上がるのとは逆に、鬼頭が男の正面に腰を下ろす。 「よぅ」  と、柴野が軽く片手を挙げて挨拶を寄越す。  鬼頭はそれを黙殺し、鋭い視線を青年へと送った。 「そいつか」  言いながら、鬼頭がタバコを咥えた。  佐和山がすぐに動き、ジッポライターの火を近付ける。  ふぅと紫煙を吐き出した鬼頭が、シガレットケースを柴野へと差し出した。  柴野が軽く眉を上げ、一本を摘まみ上げて唇に挟む。すると佐和山が同じようにして柴野のタバコにも火を点けた。  梓は佐和山の視線に促され、青年と並んで立たされた。  青年も緊張しているようで、お互いに表情は硬い。 「おい」  横柄な声に、青年がハッと顔を上げた。柴野が彼へと顎をしゃくり、 「脱げ」  と短く命じた。  梓がぎょっとしていると、鬼頭が「梓」と名を呼んだ。 「おまえも脱げ。なにも仕込んでないところを、柴野さんに見てもらえ」  冷え冷えとした声で促され、梓は思わず鬼頭と柴野を交互に見た。  こんな……男たちが何人も居る前で脱がなくてはならないのか。  梓が戸惑っている間に、青年がバサッと上の服を脱ぎ捨てた。 「さっさとしろ」  鬼頭に急かされて、梓は慌ててシャツのボタンに手を掛けた。 「随分と物慣れない子だ」  柴野が梓の様子を、皮肉気にそう評した。 「いつまでたっても初々しいのが気に入ってね」  紫煙をくゆらせながら、鬼頭がそう応じる。もたもたしていたら、梓が替え玉だとバレてしまうのではないかと、梓は緊張で強張る手を必死に動かし、シャツに続いてキュロットタイプの下も脱いだ。  青年が靴と靴下を捨て去り、先に全裸になる。  梓もそれに倣い、一糸まとわぬ姿になった。 「そこに手をついてください」  柴野の舎弟に言われて、青年がテーブルに手をついた。 「あなたも」  その指示は梓にも向けられ、梓も青年の隣で同じ格好をする。 「では失礼します」  そう言われたかと思うと、不意にぬるりとオイルを纏った指が、梓の中に入ってきた。 「えっ、なっ、なにっ」  驚いて振り返ると、スーツの男が梓の背後に膝をつき、後孔を探っていた。  青年の方は、鬼頭組の男が同様に彼の中に指を挿入している。 「梓。大人しくしていろ」  鬼頭に(たしな)められ、梓は顔を元に戻し、羞恥に耐えた。  調べてもらう、というのはこういう意味かと理解する。  男の指が、無遠慮に肉筒を往復する。  二本の指がぬちゅぬちゅと内側を隈なく這い回り、ついでのように前立腺を擦り立ててきた。  昨日まで抱かれ続けた体だ。  容易にそこはほころんで、男の指を引き絞る動きを見せた。    梓は唇を噛んで、漏れそうになる吐息をこらえた。    奔放な喘ぎを漏らしたのは、青年だ。 「んあっ、あっ、そこぉっ」  ビクビクと腰を揺らしながら、青年が下半身を震わせた。 「おいおい。はしたないな。鬼頭さんに呆れられてるぞ」  喉奥で笑いを漏らした柴野が、青年へと揶揄を飛ばし、次いで鬼頭を窺うように見た。 「すいませんね。毎晩可愛がってるもんで。それにしてもそちらさんは……何というか、慣れてませんな」 「俺は手前(テメェ)だけで可愛がる性質(タチ)でね。人前ですることに慣れておらんのですよ」  二人の吐き出す煙が、部屋に広がってゆく。  漆黒の喫うタバコと銘柄が違うことが、いまは救いだった。  こんな状況で愛したひとを思い出しても、つらくなるだけだ。  梓は、わざとのように前立腺を嬲って来る無遠慮な指に、快感を引きずり出されながらも声を噛み殺した。  くちゅり……と水音を立てて、ようやく男の指が出てゆく。  梓はホッと息を吐いた。  ぐったりとテーブルに顔を伏せた梓の耳元で、不意に柴野組の男が囁いた。 「ガキのくせに、いやらしい孔だな」  ハッとして瞼を上げると、男が梓の目の前で、淫靡に濡れた指をぬちゅぬちゅとこすり合わせた。  梓の耳朶が羞恥の色に染まる。  身体検査は、まだ終わったわけではなかった。  梓と青年はその場で膝をつくように命じられた。  罪人のように絨毯の上に膝を折ると、顎を掴んで仰のかされる。 「口を開けろ」  と、柴野が言った。  梓は、ビクっと体が跳ねそうになるのをなんとかこらえ、横目で鬼頭の方を見た。  鬼頭が軽く顎を揺らして、頷く。  大丈夫なのだろうか。  口を開けても、大丈夫なのだろうか。  カプセルは小さなものだし、上の奥歯に仕込まれているので、パッと見はわからないはずだ。  梓の横では青年が平然とした様子で、鬼頭組からの改めを受けている。  梓がおずおずと口を開くと、舌を掴まれ、引きずり出された。  そして、口蓋や舌の裏を指で探られる。  歯茎などにも男の指は及んで、カプセルを潰されやしないかと梓は冷や冷やした。  ひと通りを確認すると、男の指は出て行った。    梓の脱いだ服は、べつの男によって検分されており、それが済むとようやく服を着ることがゆるされた。    これで、人質交換は成立したのだろうか。  梓はこれから、柴野に引き取られ、彼の慰み者として過ごさなくてはならない。  耐えられるだろうか、と、ふとそんな疑問が頭を掠めた。  梓は、柴野に抱かれることに耐えられるだろうか。    二日前までの梓なら、たぶん、耐えられた。  鬼頭組の男たちに汚され、櫨染(はじぞめ)に抱かれていた梓ならば、柴野組でどんな扱いを受けようと、柴野の寝室に呼ばれるまでは耐えることができただろうと思う。  けれど昨夜、漆黒に抱かれて……。   梓の体は、しあわせで満たされてしまったから……。  このしあわせを、よごされてしまうのなら。  いま、死んでしまいたい、と。  梓は、そう思ってしまった。  漆黒のことだけを、覚えておけるように。  いま、死んでしまいたいと。    自分の中から湧き上がってくる誘惑は、途方もなく甘くて。    理久のことはどうなるんだ、梓が役目を果たすことなく自殺したら、理久も病院を追い出されてしまうかもしれない、と叫ぶ理性を、封じ込めようとしてくる。  梓が死んでいいのは、柴野の懐に入ってからだ。  それはわかっている。  よく、わかっている。  けれど。     漆黒に、抱かれた体を。    愛されているかもしれないと、錯覚するほどにやさしく抱かれた体を。  汚されてしまうのは、つらすぎて。  梓は舌先で奥歯の裏を探った。  これを噛み砕けば。  梓は楽になる。    解放されるのだ。    梓は、ころりと、口の中でカプセルを転がして……。  それに、歯を、当てた……。            

ともだちにシェアしよう!