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第47話

 梓が口の中で、毒物の入っているカプセルの丸みを転がした、その時だった。  不意に、廊下から騒がしい気配が伝わってきた。  扉が忙しなくノックされる。 「何だぁ?」  訝しげに眉をひそめた佐和山の舎弟が、ほんの僅か扉を内側に開いた。 「どうした……って、おいっ!」  狼狽えた声を上げた男の体が、ドンと突き飛ばされる。    押し入って来たのは、巨躯の男だった。  太い腕を突き出して邪魔者を退けると、彼は扉を抑え、大きく開いた。  その、向こうから。  光沢のあるシルバーのスーツを身に纏った、見覚えのある男が入ってくる。  あれは……そうだ、あれは淫花廓の楼主だ。和装しか見たことがなかったから、一瞬誰かわからなかったけれど、確かに楼主である。    なぜ、この男がここに……。  ぽかんとする梓の目は、次に、楼主に続いて入ってきた洒脱な雰囲気の男を捉えた。  梓は……信じがたい思いで、派手なスーツ姿のその人物を見つめた。  顎ひげのある、整った顔は……。  今朝別れたばかりの、漆黒のもので……。  まぼろしでも見ているのだろうか、と、梓は数度瞬きをした。  パチパチと瞬きを繰り返しても、まぼろしは消えない。 「なんだおまえらっ」  室内に居た柴野と鬼頭の組員が気色ばみ、乱入してきた三人組を囲む。  それを制したのは、柴野だった。 「これはこれは……淫花廓の……。こんなところまで、どういったご用向きですか?」    怪訝にしつつも柴野がそう問いかけたおかげで、どこの誰とも知れぬ闖入者ではないと見なされたのか、組員たちの緊張が少し緩む。  柴野の言を受けた楼主が、小さく肩を竦めて、 「どうもこうもねぇよ」  と答えた。   「そこの」  楼主が、梓に向かって指を突き付けてくる。  鬼頭が眉間にしわを刻んだまま、梓と楼主とを見比べた。 「そこの、その子ども。聞けば捜索願が出されてるって話じゃねぇか」  楼主のセリフに、梓は驚いた。  しかし、梓以上に驚いたのだろう鬼頭が、 「誰だ貴様は。適当なこと言ってんじゃねぇぞ」  と、ドスの効いた声で吐き捨てた。  楼主が目の前に居た組員を押しのけ、鬼頭の前に進み出る。 「鬼頭さんですね。初めまして。俺が何者かは、そこの佐和山さんがよくご存知だ。うちでしばらく、その子どもを預かってたんだが……」  楼主が片頬で笑い、チラと背後の漆黒を振り向いた。  漆黒は、この部屋へ入って来たときからリラックスした姿勢でポケットに手を突っ込んでおり、梓へは目を向けて来ない。  楼主が漆黒を視線で示して、言葉を続けた。 「そこの、刑事さんがな。誘拐だ未成年略取だって騒ぎ立てるもんでなぁ」  困った、とは微塵も思っていない表情で、楼主が顎をさすった。  梓は、彼が漆黒のことを刑事だと言ったことに耳を疑った。  なぜ、楼主がそれを知っているのか……。  警察の身分であることは、秘密のはずではなかったのか……。   「刑事、だと?」  鬼頭と柴野が同時にそう言って、怪訝な目を漆黒へと向けた。 「淫花廓(うち)は確かに治外法権ですがね、刑事さんに乗り込んでこられちゃあ具合が悪ぃ。知らぬ存ぜぬを通して淫花廓(うち)の印象が悪くなるのもいただけねぇしなぁ」  楼主がいい迷惑だと肩を竦めると、それを聞いた漆黒がへらりと笑った。彼は長いストライドでずかずかと部屋の奥へ歩み寄って来ると、無造作に梓の肩を抱き寄せた。 「ま、そういうわけで、この子は保護させてもらうわ」  軽い調子でそう言って片手を挙げた漆黒の肩を、立ち上がった鬼頭がむんずと掴んだ。 「こんな場所まで令状もなく来る刑事なんて居ねぇだろう。刑事さん。手帳出しな」  怒気を孕んだ目で睨み下ろされ、梓の足が震えそうになる。さすがひとつの組を任されている男だ。ものすごい迫力である。  けれど漆黒は、軽薄な笑みを消さずに、軽い身じろぎで男の手を振り払った。 「いいのか?」 「ああ?」 「俺が手帳出したら、本格的な捜査になるぞ? いまなら見なかったふりしてやるって言ってるんだ。大人しく引っ込んでろよ」  挑発にも似た漆黒の言葉に、周囲の男たちが怒声を上げた。 「てめぇっ」 「親父に舐めた口きいてんじゃないぞっ」  口々に怒声を投げられて、梓は身を縮めた。  そんな梓をちからづけるように、肩に置かれていた漆黒の手に、わずかにちからがこもる。  梓はハッとして彼を見上げた。  漆黒の視線が、そのとき初めて梓のそれと重なった。    目尻に、くしゃりとしわを寄せる笑い方で。  漆黒が、ちらと笑みを見せる。 「この子は返してもらう」  きっぱりと、鬼頭へそう告げて。  漆黒が梓の肩を抱いたままで楼主の方へと戻った。  鬼頭組の男たちがそれを阻もうとしたが、そこには巨躯の黒スーツの男が立ちはだかる。 「(カシラ)。ここは引きましょう」  抑揚のない声で、佐和山が鬼頭を宥めた。 「佐和山、てめぇ……。この不始末、どう落とし前つけるつもりだ」 「頭。一先(ひとま)ずここは……。柴野の組長が居られますんで」  佐和山が深々と頭を下げた。  彼のその言葉で、鬼頭はいまの状況を思い出したようだった。    柴野は……状況がわからないながらに、ソファに堂々と腰を下ろしたままで、鬼頭の失態を鑑賞していた。 「鬼頭さん。あんたの愛人が警察に保護されましたが?」  意地悪く喉奥で笑った柴野の揶揄に、鬼頭が屈辱に歪んだ顔で舌打ちを漏らした。 「佐和山。来い」  短く、吐き捨てて。  鬼頭が佐和山の胸倉を掴み上げ、男を引きずるようにして部屋を出て行った。  鬼頭の舎弟たちは一瞬呆気にとられた表情をしていたが、すぐに組長に続きあわあわと退室してゆく。  それを笑いながら見送っていた柴野に、おもむろに楼主が近寄った。  男が、柴野の耳元でなにかを囁く。  柴野がガバっと楼主を仰ぎ、 「本当か?」  と異様に興奮した声を出した。  楼主が唇の端で笑い、ゆっくりと頷く。 「今回お騒がせした、ほんのお詫びですよ。今晩、ぜひどうぞ」  楼主はそう言い置いて、 「行くぞ」  と、漆黒たちを促した。  梓は自分に一体なにが起こったのかもよくわからずに、漆黒に肩を抱かれてホテルの部屋を出た。    廊下に立ち、梓の背後で扉が閉まった。  と、思った途端、強いちからで壁に背を押し付けられた。  え、と思う暇もなく、唇が塞がれる。  梓は目を見張った。    漆黒に、口づけられているのだった。  男の舌が、口腔内に入り込んでくる。  そのまま、口を探るように舌を動かされ……梓はそのとき、その口づけがタバコの味がしないことに気付いた。  漆黒のキスは、いつも苦くて……。  梓は、彼のキスが好きだったから。  タバコの味がしないので、これはやはり梓の夢なのかもしれない、と、男の激しい口づけを受けながらそう考えた。    そしてふと、梓は口の中のカプセルの存在を思い出す。    いけない。  こんなに舌をこすりつけられては……カプセルが割れてしまうかもしれない。  梓は首を振って、男の唇をほどこうとする。  けれど、漆黒のそれは離れてくれずに。  唾液ごと、梓の舌を吸った。  ころり、と転がった丸いカプセルが。  漆黒の口に消える。 「んん~っ!」  梓は思わず漆黒の胸を突き飛ばした。  漆黒がカプセルを飲んでしまった!    ぷは、と彼の唇が離れた。 「漆黒さんっ!」  梓が悲鳴のように男を呼ぶのと同時に、漆黒が口元へと手を持っていき、ぺ、とカプセルを吐き出した。  てのひらに出したそれを、胸元に入れていたハンカチで包んで。  漆黒はそれを、楼主へと差し出した。 「要るか?」  漆黒の問いに、楼主が小さく鼻を鳴らす。 「要らねぇよ、と言いたいところだが、一応もらっておこう。おい」  楼主がネクタイを緩めながら、巨躯の男へと顎をしゃくった。黒スーツが漆黒からそれを受け取り、スラックスのポケットへと仕舞いこむ。 「スーツは肩が凝ってかなわねぇ。さっさと戻って着替えるぞ」 「帰りも地下か?」 「馬鹿野郎。そう簡単にあれが使えるわけねぇだろうが。帰りは車だ。手前(テメェ)はともかく、そこの怪士(あやかし)はもう限界だろうからな」 「早く戻りましょう。アザミさまを、手伝わなければ」 「ったく。荒事になると思っておまえを連れてきたが……甲斐がなかったな。まぁ手前の出張費は漆黒の稼ぎからつけといてやるよ」  ひらりと手を振った楼主が、そう言ってエレベーターホールへと行きかけて……足を止めて梓を振り向いた。 「俺たちゃ先にロビーへ行ってるから、手前は一寸(チョット)梓に説明してから来いよ。わけがわからねぇって顔してんぜ?」  楼主の指摘に、漆黒が梓を見下ろし、苦笑をひらめかせて頷いた。  楼主と黒スーツが、連れ立って廊下を歩いてゆく。  その背をぼんやりと見送っていた梓の背に、男の腕が回された。 「梓」    バリトンの声が。  梓の鼓膜に注ぎ込まれる。  これは……夢ではなくて、本物の漆黒なのだろうか? 「……漆黒さん?」  小声でその名を呼ぶと、漆黒の腕にちからがこもり、梓はぎゅっと抱擁された。 「梓。おまえが無事で良かった」  安堵の吐息とともに。  漆黒の囁きが落ちてきた。 「ほ、本当に、漆黒さんですか? 本物?」  漆黒の胸に顔を押し付けるようにされても、やはりタバコの香りはなくて……梓はついそんな問いかけを放ってしまう。  漆黒が目尻にしわを作って苦笑を漏らした。  こつん、とひたいにひたいをぶつけられ、そこからじわりと漆黒の体温が伝わってくる。 「なんで疑ってるんだ? ん?」 「だ、だって、服装が……」  和服姿の漆黒しか知らない梓には、グリーンのスーツを着た男が見慣れなくて。  上質そうな生地をてのひらでさすると、漆黒が嫌そうに顔をしかめた。 「般若に着せられたんだよ。軽薄な刑事には似合いだろうってな」    確かに似合っている。  洒脱な雰囲気の漆黒に、派手なスーツは確かに似合っているが……。 「た、タバコっ」 「あ?」 「いつもの、タバコの香りもしませんしっ」  だから本物かどうかわからない、と梓が言うと、今度は眉尻を下げた、少し情けない微笑を男が見せた。 「昨夜おまえを抱いてから……一本も喫ってないんだ。いまなら禁煙できそうだな」  苦笑交じりにそう語った漆黒の手が、梓の髪をさらさらと撫でてくる。  そのまま、唇が下りてきて。  ちゅ、と口づけをされた。  二度、三度とバードキスを繰り返した男が、梓の好きな、バリトンの声で囁いた。 「一緒に帰ろう、梓」  その、言葉に。  梓の目からぼろりと涙がこぼれた。    梓は泣きながら、漆黒へとしがみつき……こくこくと何度も頷いた。  漆黒のやさしいてのひらが、梓の頬を包んで。  梓は、涙の味のするキスを、男と交わしたのだった。              

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