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第48話

 梓は漆黒たちとともに、ホテルから楼主の手配した車で淫花廓へ戻ることとなった。  エレベーターでロビー階まで移動する間中、手は、ずっと繋がれていた。  梓が逃げるとでも思っているのだろうか、漆黒の指は梓のそれと絡まり合ったままで。  てのひらから伝わる熱が、これが夢ではないことを梓に教えていた。  車の後部座席に横並びで座った漆黒が、自身の肩に梓の頭を寄り掛からせて、 「寝てていいぞ」  と言った。 「おまえに言いたいことはたくさんあるけどな。おまえを叱るのは、俺の役目じゃないから」 「……?」 「だから、寝てていいぞ」  やさしい言葉に促されて、梓はそっと目を閉じた。    しばらくすると、ふわり、と嗅ぎなれたタバコの香りが漂ってきた。  胸の深い部分が満たされるような香りだ。  薄目を開けて、ちらと隣の男を見上げると、漆黒の唇には白いタバコが挟まっていた。 「なんだ。禁煙するんじゃねぇのか」  助手席から顔を巡らせた楼主が、揶揄混じりに笑う。  うるせぇよ、と漆黒が答えた。声の振動が、男にもたれている梓にも伝わってくる。 「ホッとしたら、喫いたくなった」  ふぅ、と煙を吐いた男が、車の窓を少し開いた。  雨は、いつの間にかやんでいた。  湿気混じりの風が車中に入り込み、梓の髪を揺らした。   「手前(テメェ)が腰抜けのせいで、要らねぇ手間を食ったな」 「うるせぇって。しかし組長クラスにも顔パスとか、あんたほんとに何者なんだよ?」 「おいおい。刑事の真似事は止めるはずじゃねぇのか?」 「純粋な疑問だよ」  男たちの会話が、耳をすり抜けてゆく。  瞼に眠気がまとわりついて、梓はうとうとと彼らの声を聞いた。 「そういえばあんた、柴野の組長になんかこそこそ言ってたな。あれはなんだったんだ?」 「質問が多いな」  くつくつと楼主が喉奥で笑う。 「大した話じゃねぇよ。柴野はな、淫花廓(うち)の馴染みだ。まぁ最近は目当ての男娼が居なくなっちまったから足が遠のいてたけどな」 「……なるほど、」 「そうだ。今回騒がした詫びに、アザミをひと晩限り復活させる。淫花廓(うち)はあくまで中立だ。鬼頭や柴野のいざこざで妙な噂を流されちゃあかなわねぇ。フォローは入れておかねぇとなぁ。まぁ、柴野にしてみりゃラッキーだろう。淫花廓が柴野のために引退したはずの元一番手の男娼を引っ張り出して接待させるんだ。箔はつくわなぁ」  ふぅ、と楼主が息を吐く。  タバコの香りが強くなったので、彼も喫い始めたのだろう。 「ということは、般若がそのアザミだってわけか……道理で雌の匂いがすると思った」 「おいおい。口の利き方に気を付けねぇと、そこの番犬が噛みつくぞ」  番犬……犬なんてこの車に乗っていただろうか?  半分寝ている頭でそう考えた梓の耳に、ハンドルを握る巨躯の男の声がぼそりと聞こえた。 「噛みつきません」 「冗談だ」 「はい。ですが、アザミさまに傷をつけたら、噛みつきます」  無骨な話し方と、その声はなんだか聞き覚えがあって、梓は重い瞼を持ち上げた。  梓からは運転席の男の横顔がわずかに窺えたが、その男らしい顔はやはり知らないひとのものだった。  梓が目を開いたのに気付いたのか、漆黒の手があやすように髪を撫でてくる。  その心地よさに誘われて、梓はまた微睡みの世界へ引き込まれていった。 「ところで」 「なんだ」 「今回の一体誰だったんだ?」  漆黒の問いかけに、沈黙が下りた。  しばらくの後、楼主が笑い交じりに口を開いた。 「いい読みじゃねぇか。それを俺に聞くってことは、あらかた筋が見えてんだろ?」 「見えてるってほどじゃない。だが、今回のこの……」  漆黒のてのひらが、やわらかな仕草で梓の肩を抱く。  なんだろう。梓の話だろうか。  会話の中身があまり頭に入って来ない。 「この、梓の件は、いろいろとおかしかった」 「どうおかしかったってんだ?」 「まず、梓に情報を与えすぎている件。ふつうの子どもならビビって逃げ出すに決まってる」 「それを逃げ出せねぇようにするのが、やくざのやり口だろうが」 「なら理久への手紙はなんだ? あれは梓がひとりで行動できる時間があったってことだ。梓が逃げりゃこの計画はご破算になるはずだ。それにしちゃあ、監視の目がゆるすぎた」  理久、という名が漆黒の口から出たことで、梓は不意に胸苦しい気分を覚えた。  理久……。  どうしているのだろうか。  梓は……理久を見捨てる真似をしてしまった。  理久よりも、自分の感情を優先してしまった。    梓は漆黒の方へ倒していた体をガバっと起こし、彼のスーツの裾を握った。  急に動いた梓を、漆黒が驚いたように見てくる。 「り、理久がっ……」  声を詰まらせた梓の唇を、漆黒のそれが塞いで言葉を奪った。  急にキスされたことに梓は目を丸くして、思わず漆黒の胸を押しのけた。 「おい、イチャつくなら車から蹴りだすぞ」  助手席から楼主の苦言が飛んでくる。  梓が口を押えると、漆黒が片頬で笑って、ポンポンと梓の頭を叩いてきた。 「梓。ぜんぶ大丈夫だから、いまは休んどけ」 「で、でも……」 「大丈夫だ」  漆黒の整った顔が、やわらかく撓む。  その、目が。  あまりにもやさしくて。  梓はドキドキしてしまい、直視できずに俯いた。するとまた漆黒の手に頭を引き寄せられて、とんとんと心地よいリズムでそれが弾みだす。    大丈夫だ、と漆黒が言うのなら。  そうなのかもしれない……。  眠気でうまく回らない思考が、またとろとろと溶けてゆく。 「梓を使った人質交換は、失敗しても構わない、というよりは、最初から失敗させようとする意志が働いているように、俺は感じた。現にあんたも、俺を使って梓を止めようとしただろう」 「純真な子どもがやくざに使われてるとなりゃあ、ふつう止めるだろう」 「あんたが利益にならないことをするはずがない」  きっぱりと断じた漆黒の声は、けれど梓には子守歌のように聞こえた。  彼の、低いバリトンの声。  梓の好きな、声。 「ひでぇ言い草だな」 「事実だろう? それにあんたは今回の件の事情に精通しすぎている。柴野と鬼頭の密会場所なんざ、そうそう割れることじゃないだろう。あんたはすべて知っていて、その上で最初から今回の人質交換の話を潰すつもりだったんだ」  くつくつと楼主が笑った。 「いつから疑ってた?」 「小さな疑問は、梓に話を聞いたときから持っていた。だが、決定的になったのは、さっきホテルに乗り込んだときだな。あんたが言ったように、俺もドンパチになる覚悟だったが……佐和山が。よく考えりゃあ佐和山は女子どもを巻き込むような奴じゃない。佐和山は初端(ハナ)からこの話を壊す予定だったんだな?」 「ほぅ……」  感嘆するような声を、楼主が漏らした。 「半分正解だ。腐っても刑事だなぁ、漆黒?」 「腐ってねぇよ」 「俺のが聡明でなによりだ。よし、じゃあ種明かしといこうじゃねぇか」  シュ、とライターを擦る音がした。   漆黒か、楼主か、どちらかがまた新しいタバコに火を点けたのだ。  梓は半分眠ったような意識の中で、男たちの話に耳を傾けた。 「楠木会ってわかるか?」 「ああ。鬼頭と同じ、長沼組系列だろ?」 「そうだ。佐和山はそこの若頭と繋がってんだよ」 「へぇ……ってちょっと待て。楠木会の若頭っていや、あれか。大楠龍成(りゅうせい)か。幹部のって噂の」 「今回俺は、その若頭の依頼を受けて、人質交換の話を潰すために動いてたってわけだ」 「待て待て待て待て。じゃあなにか? 佐和山は自分トコの組長捨てて大楠のために動いてたってことか?」 「まぁそうなるわなぁ」    頭を預けていた漆黒の体が身じろぎをした。  会話の邪魔だろうか、と思って梓は体を反対側へと倒そうとしたが、それよりも早く伸びてきた手が、肩口から梓の頭を浮かせると、そのまま梓は男の膝の上へと上体を倒された。  漆黒に膝枕をされている。  妙に気恥しい気分になった梓の体の上に、バサリとなにかが掛けられる。  薄目を開けて見てみるとそれは、漆黒のスーツの上着だった。  グリーンのそれからふわりと男の体臭がして、梓はクンと鼻を鳴らす。   「だが大楠はなんでそんな横槍を? 柴野を吸収することは長沼にとっちゃあ大きな利益だろ? 長沼組が潤うことで楠木会になにか不利益があんのか?」 「そこまでは知らねぇよ。情報は金だが、深みにはまるのはバカがすることだ。言っただろうが。淫花廓は中立だと。どこの組にもつかねぇ代わりに、どことも対立しねぇんだよ。知りすぎて得になることなんざねぇな」  「じゃあ、あんたは大楠に大金を貰って、奴の協力者になってたってことだな?」 「若頭は金払いがいいんだ」 「ということは、最初から人質交換はさせない方向だった」 「だからおまえに梓を付けたんだよ。まぁ手前(テメェ)が思ったよりもへなちょこで、一向に梓を止めようとしねぇのは予想外で、結局乗り出すことになっちまったがな」 「俺が頭を下げなくても、結局は助けるつもりだったってことだな?」  漆黒の確認に、楼主がくくっと笑みを漏らした。 「ギリギリまで待ったおかげで、俺ぁおまえという手駒が増えた。もう一寸(チョット)早く裏が読めてりゃあ、無駄な土下座なんざしなくてよかったのになぁ、漆黒?」 「くっそ! ってことはあんたのひとり勝ちじゃねぇか! どうせあれだろ。柴野を今晩誘ったのも、遺恨を残さないこと以上に、淫花廓に金落とさせる目的だろ!」 「俺ぁ商売人だぜ? 儲け以上に優先することなんざねぇよ」    二人の応酬に少しの激しさが混ざったので、喧嘩だろうか、と梓は夢うつつながら心配になったけれど、漆黒が屈託のない笑い声を上げたのでホッとした。 「ははっ。あ~、してやられた~。くっそ。これで俺はまんまとあんたの犬だな」 「おまけに手前(テメェ)は般若にも借りを作ったしな」 「あれはあいつが勝手に言ったことだろ。……って、まぁいいか」  くくっと肩を揺らした漆黒の、手が。  癖のない梓の髪をさらさらと梳いた。  その指が心地よくて、梓の意識はさらに溶ける。     そして梓が、完全に眠りの世界へと落ちる直前。  漆黒のやさしい呟きが、ぽつりと落ちてきて、梓の鼓膜を甘く震わせた。    「梓が俺のとこへ戻ってきたんだ。他のことは、この際、どうでもいいよな」        ゆっくり休めよ、とバリトンの声が囁いて。   梓はそのまま、車が淫花廓へ到着するまでの道中を、漆黒の膝の上でぐっすりと寝て過ごしたのだった。

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