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第49話

 緊張のゆるみは、梓に倦怠感をもたらしたが、淫花廓へ着くとそれも一気に立ち消えた。  車で乗り付けたゆうずい邸の前に、車いすに乗った理久が居たからだ。 「理久っ」  短く叫んで、梓はまろぶようにドアを押し開けて転がり出た。  なぜこんなところに理久が、という疑問よりも、彼が無事だった喜びの方が勝った。 「理久っ」  走り寄って、その痩身に抱きつこうとした梓の頬を。  パシっと、理久の薄いてのひらが叩いた。 「ふざけんなっ!」  怒鳴った理久が、また腕を振り上げる。    たった一度の動作で、理久の息はすでに上がっていた。  けれど彼は胸を喘がせるように呼吸して、バシ、バシ、と何度も梓を()った。 「ふ、ふざけんなっ、バカっ、このバカっ」  震える手にちからはほとんど入っておらず、最後は叩くというよりは撫でるような動きで、理久の腕がずるずると体の脇に落ちる。  はぁはぁと肩を上下させた理久の、その小柄な体に。  梓は泣きながらしがみついた。 「ご、ごめんね、理久。ごめん……ごめん」  謝罪の言葉を繰り返しながら、親友をぎゅっと抱きしめると、理久の小枝のような腕が重たそうに持ち上がり、梓の頭を抱き寄せてくれた。 「バカ……おまえって、ほんとに、バカだ」  苦しげな呼気の合間に、梓を詰って。  理久もまた、涙を零した。   「梓」  バリトンの声に呼ばれて梓が濡れた顔を上げると、漆黒が建物の中を指さして、 「取り敢えず静養室に連れてってやれ。そこでゆっくり話せよ」  と、促してきた。  梓は理久の車いすを押して、漆黒の案内で医務室の隣の静養室へと入った。  理久が梓の手を借りてベッドに横たわると、室内にいた能面の男衆がすぐに酸素のカニューラを装着し、細い指先に酸素濃度を測る機械を嵌めた。  最初はアラームが鳴っていたそれは、理久の呼吸が穏やかになった頃にようやく静かになった。  理久はむっつりとした怒りの表情で、無言で梓を睨んでいる。  ふと気付けば、室内には梓と理久しか居なかった。漆黒や……男衆、楼主や車を運転していた大柄な男の姿もない。  梓が理久とゆっくり話せるようにと、気遣ってくれたのだろう。  梓はベッドサイドの椅子に腰を下ろし、理久の手を握った。   「……おまえ」 「ごめんっ!」 「まだなんも言ってねぇし……。つーか、なににごめんか言えよ」 「……えっと……」 「オレが怒ってるからとか言ったらもいっぺん叩く。おまえの返事次第で友達やめるからな」  つけつけと、怒りを滲ませた口調で理久がそう言った。  梓はしばらく握り締めた理久の手に視線を落としていたが、やがてゆるゆると目を上げて、理久の顔を見つめた。 「僕が……僕を粗末にしたから」  梓の返答に、理久の下瞼がひくりと震えた。 「バーカ」  白い頬で、小さく笑って。  理久がそう悪態をついた。  友達をやめる、と明言しなかったのだから、この答えで正解なのだ、と梓はホッと背中の緊張をゆるめる。 「そういえば、おまえの好きなひとっての、あの髭の男だろ?」  怒りの矛を収めて、一転して軽い声で理久が問いかけてきた。  梓はぎょっと目を丸くして、それから一気に赤面する。 「な、な、なんでっ、なんでわかったのっ?」 「バレバレ。つーか、今朝、おまえがここ出てった後に、オレ、あのひととちょっと喋ったんだよな」 「なんで……って、そう言えば理久はなんでここに居るの?」  梓が抱いていた疑問を彼に投げかけると、理久はあっさりと答えた。 「オレ? 連れて来られたから」 「だ、誰に?」 「なんか……すっげぇ綺麗なひと。ここに着く前には、奇妙なお面かぶってたけど……。なんか、能面みたいなやつ。もうひとり、めちゃくちゃデカイ男従えてたけどそいつもべつのお面かぶってた。ここ、変なトコだよな~? 顔見せちゃダメって」  屈託のない理久の評に、梓はふふっと笑ってしまった。  梓も初日には、男衆たちの姿に驚いたものだ。  ひと月も経てばさすがに、それは見慣れたものになったけれど。 「たぶん、般若さんたちだ……」  理久を連れてきたのは、あの、女物の(つむぎ)に身を包んだ、嫋やかな雰囲気の男衆だろう。一緒に居たのは多分怪士面の男だ。  楼主が手を回してくれたのだ、と梓は悟った。  車中で夢うつつで耳にした、楼主と漆黒の会話の、ほんの一部分しか覚えていないけれど。  楼主は最初から、梓を助けてくれるつもりだったという。  だからきっと、理久がとばっちりを受けないように、と、淫花廓で保護してくれたのだ。  あとで丁重にお礼を言わなければ……という思いと同時に、梓は自分の裏切りを思い出した。 「理久……」 「なんだよ」 「もうひとつ、僕、謝らなきゃ……」  梓は上体を倒し、握った理久の手をひたいに押し付けた。   「僕……理久を、見捨ててしまった……」  彼の顔を見て言うのは、恐ろしかったから。  顔を伏せたままで、梓は懺悔する。    「漆黒さんに……迎えに来てもらったとき……理久のこと、頭から抜けてた。……僕、自分のことしか考えられなくて……漆黒さんの手を、取ってしまった……。ごめんね理久。薄情な友達で、ごめん」  梓のひたいと密着した理久の指が、もぞりと動いた。  するり、と痩せた手が引き抜かれる。  離れてゆくそれを追って、頭を上げる勇気はなくて。梓はシーツに顔を伏せた続けた。 「バカっ」 「わっ」  不意に、後頭部を抑えつけられ、顔がバフっとやわらかな布団に埋まってしまう。  首を捩じって横を向くと、への字に曲がった理久の唇が見えた。  と思ったらそれが間近に迫って、気付けば梓は理久に抱きしめられていた。  犬でも撫でるように、理久が梓の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜてくる。 「おまえはそれでいいんだよ、バカ梓。おまえはいい加減、オレ離れしろよ。オレから離れて、自分のしあわせを考えろよ」 「……理久……。嫌だよ。僕、理久にもしあわせになってほしい」 「あのさ、梓」 「うん」 「オレもそう思ってるって、わかんねぇ?」 「え?」    理久の腕がゆるんだので、梓はそっと顔を持ち上げた。  ぼさぼさになった梓の黒髪を、理久が指先で整えながら、ほんのりと微笑する。   「オレも、おまえにしあわせになってほしい。オレはオレで、しあわせを見つけるから。おまえはおまえで、しあわせになれよ」  彼の声は、強かった。  ずっと病床に居て、苦しいことの方が多かっただろうに、理久はいつも凛としていて。  梓はいまようやく、自分の行動が間違っていたことを思い知る。    梓を犠牲にして、どうして理久がしあわせになれると思ったのだろうか……。  梓だって、理久がしあわせじゃなきゃ、しあわせにはなれないのに。  ぼろり、と両目から涙が零れた。  うん、と梓は頷いた。  何度も頷いて、薄い理久の肩を抱き寄せる。  理久は抗わずに梓にもたれた。  呼吸の合間に、微かな喘鳴が混じっている。もう、横にならせないといけない。理久の体に負担がかかってしまう。  けれど理久が。  梓の背を、抱き返してくれたから。  確かなちからで、抱き返してくれたから。  梓は、離れ難くて……泣きながら彼にしがみついた。 「うん。うん……僕、ちゃんとしあわせになるから……」  語尾を詰まらせた梓の言葉に、腕の中で理久がくくっと笑う。 「なんだその……花嫁みたいなセリフ」 「そ、そんなつもりじゃないよっ」 「バーカ。そんなつもりでもいいよ。でも、あんな髭のおっさんにおまえやるのもな~。なんか勿体ない」  理久があながち冗談とも思えない口調で、そんなふうに言ってきた。 「し、漆黒さんは、おっさんじゃないよ……」 「はいはい。まぁおまえが面食いだってのがよくわかったよ」 「う……」  面食いじゃない、と言い返そうとした梓だったが、漆黒が格好いいのは事実だし、否定できずに口ごもってしまう。      そんな梓と、視線を合わせて。  理久が明るい微笑を見せた。  梓もつられて微笑む。  潜めた2人の笑い声が、静養室にしばらくの間満ちていた……。     

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