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第50話

 ベッドで眠る理久の顔を梓が見つめていると、部屋の扉が控えめにノックされた。  梓がパタパタと走り寄ってドアを開くと、廊下には黒衣姿の怪士(あやかし)面の男が立っていた。 「一緒に来てください」  と、男の低い声が梓へと向けられる。  梓は頷いて、男の斜め後ろについて部屋を出た。  病院で、悲愴な決意を胸に、ベッドで眠る理久を後にしたのは、約半月ほど前のことだ。  いまの梓は穏やかで……後ろ髪を引かれたりはしなかった。    前を歩く男の、服越しにもわかる鍛えられた肉体と……耳から頬にかけてのラインにぼんやりと見覚えがある気がして、梓は記憶を探る。  他の怪士面は皆剃髪しているのに、この男だけは頭部に毛を生やしていて……梓は「あっ」と小さく声を漏らした。  怪士が立ち止まり、梓を振り返る。 「どうされました?」  尋ねられ、梓は一瞬言い淀む。人違いかもしれない、と思いつつも、梓は小さな声で問いかけた。 「も、もしかして、漆黒さんと一緒に僕をたすけに来てくれたひとですか?」  梓の言葉に、怪士が無言で頷きを返してくる。 「あ、ありがとうございましたっ」  梓が頭を下げると、男が静かな動作で首を振った。 「私は楼主の命に従っただけです。お礼を言われるようなことはなにも」 「そ、それでも、ありがとうございました」  梓がお礼の言葉を繰り返すと、吐息のような声が小さく聞こえた。  能面に阻まれて表情はわからなかったけれど、たぶん、怪士が微笑んだのだ。 「いいえ」  朴訥な声が応じて、怪士がまた歩き始める。  男に連れられて向かったのは、地下だった。  怪士が扉の前に立つと、電子音が聞こえ、自動でそこが開いた。  扉は三重になっていて、行き当たる度に怪士は足を止め、恐らく、彼の体のなにがしかに反応して扉が開く。  梓は、老舗旅館のような外観のゆうずい邸の地下に、こんな近代的でハイテクな設備があることが意外で、目を丸くした。  かなり厳重なセキュリティの奥には、真っ直ぐな通路が伸びている。 「……どこへ、行くんですか?」  白い光の中、靴音だけが響くのが不安になって、梓は先を行く男の背へ問いかけた。 「これは、しずい邸へ続く地下通路です」  答えになったようななっていないような言葉が、怪士から返ってくる。  しずい邸……。  聞き覚えのある名に、梓は小さく首を傾げた。  そうだ、確かゆうずい邸と並び立つ建物が、そんな名前だった。  両邸の間には川が流れていて……橋もかかってないそこをどうやって行き来するのか、不思議に思ったことがあったが……そうか、地下通路が通っていたのか。  ひとり得心した梓だったが、今度はなぜ自分がそのしずい邸とやらに向かっているのか疑問に感じ、それを怪士へと尋ねようとしたが、いずれわかるだろうと思い直して口を噤んだ。    梓が怪士に連れられてしずい邸の一階へと上がったとき、張見世を模したのだという格子で仕切られたその場は、なんだか騒めいていた。  時刻は夕方を回ったところで、ゆうずい邸でもこの辺りから男娼たちは準備を始めるのだが、しずい邸はそれ以上にざわざわと浮足立っている。    格子の中に居るひとたちは皆華やかな和服に身を包み、ゆうずい邸の男娼とはまったく雰囲気が違っていた。  それに、お香だろうか……雅な香りが漂っていて、梓は物珍しさにきょろきょろとしてしまう。  怪士は動じることなく淡々とその場を横切り、張見世の奥へと梓を(いざな)った。    とある扉の前で、怪士が足を止める。  コンコンコン、とノックをすると、中から「開いてるよ」と声が返ってきた。  この声は……般若だ。  ということは、この中に居るのは般若か。  梓は怪士に背を軽く押されて、部屋へと足を踏み入れた。  畳敷きの和室には、たくさんの衣装ケースが置かれていた。  その奥に、悠々と座るほっそりとした体……。般若さん、と呼びかけようとした梓は、ポカンと口を開けてしまう。  黒い紬姿は般若のそれと相違なかったが、その顔は、面を着けてはいなかったのだ。  アーモンド形の瞳と、けぶる睫毛、通った鼻筋に、赤い唇……うつくしい、と形容してなお余りあるほどの美貌の青年が、驚く梓を見てくすりと笑う。 「待っていたよ、梓」  甘い声は、確かに般若のもので。  梓は何度も瞬きをして、その美麗な顔を見つめた。 「あ、あの、はん」 「ストップ。いまは、アザミと呼んでくれるかい?」  白い手がひらりと動いて、梓が口にしかけた呼称を遮った。 「あ、アザミ、さん?」 「そう。今日の僕は、アザミだよ。さて、梓」 「は、はいっ」 「きみに手伝ってほしいことがある」 「なんでしょうか?」  梓の質問に、アザミがふふっと唇をほろこばせる。ほんの少し角度が変わるだけで妖艶な気配を纏う美貌に、梓はなんだか目のやり場に困ってしまった。 「この子たちの衣装を、そこから選んでくれるかい?」  梓はアザミに気を取られていてまったく気付いていなかったが、この子たち、とアザミが指で示した方には、年若い男娼が二人、緊張した面持ちで正座していた。  二人ともタイプは違うが整った容貌をしている。 「えっ? ぼ、僕がですか?」 「そう。僕は自分の準備で忙しい。着物が選べたら声をかけてくれるかい? あまり時間がないから、手早くするんだよ」  ノーという返事をゆるさないような妙な迫力を纏ったアザミの言葉に、気付けば梓はこくりと頷いていた。  アザミが満足げに笑って、部屋の脇の鏡台の方へと滑らかな足取りで向かう。その後に怪士の巨躯が続いた。  梓はしばらく立ち尽くしていたが、ハッと我に返ると、座っている男娼たちへと向き直った。  とりあえず服を選ばなければ……。  梓は2人と一緒に顔を突き合わせるようにして、衣装ケースから高級な着物を取り出し、必死になって彼らに合いそうな色や柄を考えたのだった。  (あで)やかな赤い花の着物に身を包み、より一層うつくしさを増したアザミが、梓のチョイスを見て、 「これでいこう」  とあっさりと頷いた。 「えっ、だ、大丈夫でしょうかっ?」  梓が上擦った声で問いかけると、アザミがしなやかな動作で頷き、しげしげと梓の選んだ着物を眺める。 「きみはひと月の間、僕の選んだ服を着ていたし、の部屋で良い素材をものを見慣れているからね。僕の好みで選べるんじゃないかと思っていたけれど……なかなか筋がいい。おまえたち。早く着替えなさい」    アザミの号令で、二人の男娼が弾かれたように動き出し、男衆の手を借りて着付けを始めた。 「楼主に押し付けられたんだよ」  悪戯っぽい口調で、アザミが囁く。  梓が首を傾げると、 「元一番手が座敷に上がるところを、ひよっ子たちに見せてやれと言われてね。男娼の教育も『般若』の仕事の内だから仕方ない」  ふぅ、と赤い唇が愚痴とともに吐息をこぼした。 「あの男はひと使いが荒いね。柴野に恩も売れて、金も入って、尚且つ新人教育もできる、まさに一挙両得だよ」 「柴野……って」 「おっと口が滑った。さて、梓。隣の部屋に、楼主の手配したごちそうがあるよ。せっかくだからおまえも相伴に与かっておいで。僕はこのまま見世に出るから、ゆっくりしていくといいよ」    アザミは言いたいことだけを一方的に告げると、踵を返して、準備の済んだ男娼たちとともに部屋を出て行った。 「こちらへどうぞ」  ひとり残った怪士が、梓へと声をかけてくる。 「あのっ」  梓は咄嗟に男の腕を掴み、込み上げてきた疑問をそのまま口にした。 「あ、アザミさんが、今日座敷に上がるっていうのは、ぼ、僕のせいですかっ」  車の中で夢うつつに聞いた楼主と漆黒の会話を、ぼんやりと思い出す。  梓のせいで、アザミにも迷惑をかけてしまったのだろうか……。  不安で頬を強張らせた梓へと、 「いいえ」  と、怪士がきっぱりとした口調で答えた。 「いいえ。あなたのせいではなく、楼主の判断です」  訥々と、男衆が言葉を紡ぐ。 「我々は楼主の指示で動いています。あなたが責任を感じる必要はありません」  断言されて、梓はぐっと唇を噛んだ。  今回の梓の件で、色々なひとに迷惑をかけただろうに、誰も……梓が悪いとは言わない。  梓はどうやって、楼主やアザミたちに報いたらいいのだろうか。  途方に暮れたような梓の背を、怪士がてのひらで軽く押して、 「こちらへどうぞ」  と繰り返した。  梓は言われるがままに隣の部屋へと移動した。  そこは二間続きの座敷のようで。  座卓の上には、たくさんのご馳走が並んでいた。  けれど梓は、絢爛な料理よりもなによりも、座布団の上に胡坐をかいて座っている男に、目が釘づけになった。 「よう。お疲れさん」  やさしい声で、そう言って。  目尻にしわを寄せてくしゃりと笑ったのは、漆黒であった。           

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