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第51話
驚いて立ち尽くす梓の前で、男が目尻にくしゃりとしわを寄せて微笑んだ。
「どうした? こっち来いよ」
手招かれ、梓は夢の中のようにふわふわとした足取りで畳を踏み、漆黒の傍まで歩み寄った。
伸びてきた大きな手が、梓の手首を掴んで、座布団に座るよう促してくる。梓はとすんとそこへ腰を落とした。
「梓?」
バリトンの声で名を呼ばれ、梓は何度も瞬きをする。
「な、なんで、漆黒さんが?」
「特別に許可を貰ってな。こっちには初めて入ったが……張り見世は般若のせいで大騒ぎだったな」
くく、と肩を揺らして、男が低い笑いを漏らした。
漆黒の指が、梓の髪をさらさらと梳いてくる。
「ぼ、僕」
「うん?」
「なんだか、夢を見ているようで……」
梓は惑う視線を漆黒へと向けた。
彼の、その名の通りの黒い瞳が、やわらかく梓を映している。
「理久と話したと思ったら、般若さんがアザミさんで……こ、ここに来たら漆黒さんが居て……頭が、パンクしそうです……」
つっかえながら言葉を紡いでいると、漆黒の手に肩を引き寄せられ、梓は彼の引き締まった胸へともたれかかる体勢にされた。
こめかみをくすぐるように動いた指が、そのまま梓の後頭部に潜り込んできて。
深く、抱き込まれる。
漆黒の纏う着物から、ふわりとタバコの香りが立ち上った。
「朝から色々あったからな。疲れたんだろ」
よしよしと、子どものように頭を撫でられて。梓は梓の好きなその匂いを、鼻腔いっぱいに吸い込んだ。
「よく頑張ったな、梓」
漆黒のやさしい声が、鼓膜を揺らして溶ける。
梓は……漆黒にそう慰撫されて初めて、そうか、すべて終わったのか、とようやく肩からちからを抜くことができた。
ほっと背筋をゆるめた梓の、丸くなった肩甲骨の下を、漆黒が、軽く叩いて。
「梓。背中」
と、笑いを含んだ声を聞かせた、から。
梓はなんだかたまらないような気分になって、男の背へと腕を回した。
「ぼ、僕……」
言葉と一緒に、涙がぼろりとこぼれる。
その雫は頬を押し付けた漆黒の着物に吸い込まれ、濃い色の跡を残した。
「ぼ、僕、たくさん迷惑、かけたのに……だ、誰も……僕を、叱ってくれなくて……」
鼻を啜りながら切れ切れに訴えた梓を、どこまでもやさしい手が慰めてくれる。
バカだな、とバリトンの声が囁いた。
「バカだな、梓。今回のことでおまえを叱れるのは、理久ぐらいのもんだ。むしろおまえが、俺に怒っていいんだぞ、梓」
漆黒のセリフに、梓は驚いて濡れた目で男を見上げた。
「な、なんで、漆黒さんが」
「なんでってそりゃ、いい歳した大人たちが、寄ってたかっておまえを利用しようとしてたんだから、おまえは百回ぐらい俺を殴ったって釣りがくる」
「……殴ったりなんか、しません」
梓は両手で、漆黒のシャープなラインの頬を包んだ。
てのひらに、ざらりとしたひげの感触。
「漆黒さんはいつだって、僕にやさしくしてくれました」
それに、漆黒は梓を迎えにも来てくれた。
来てくれるとは思っていなかったから、ものすごく驚いた。
驚いて、そして……。
一緒に帰ろう、と言ってもらえて、嬉しかった。
梓はおずおずと、男の顎先へ唇を寄せた。
ざり……とした髭の上から、ちゅ、と弱いちからで吸い付くと、漆黒が低いうなり声をあげた。
「おまえなぁ~」
ゆるく癖のある自身の髪を、漆黒ががしがしとかき混ぜる。
それからはぁとため息を吐き出して、ごつっ、とひたいを合わせてきた。
「痛っ」
けっこうな勢いでぶつけられたそれに、梓は思わず悲鳴を上げてしまった。
漆黒が、触れ合ったひたいを、さらにぐりぐりと押し付けて……。
「降参だ」
と、小さく動いた唇が、梓の鼻の頭にキスを落としてきた。
「え、な、なんですかっ?」
甘い男の仕草に、梓の頬が熱を持つ。
狼狽えて忙しない瞬きをした梓を、男の黒い瞳がじわりと笑った。
「おまえが可愛すぎて、降参だ。梓。年甲斐もないことを言ってもいいか?」
「……え?」
「梓。おまえを抱きたい」
ストレートに告げられて。
梓の頬はますます赤くなった。
「おまえも疲れてるだろうし、飯も食わせてやりたいが……梓。先に、おまえを抱きたい。限界だ」
梓よりも大きな男の口が、梓の唇を奪った。
口づけは、初めから濃厚だった。
ぬるり、と入り込んできた舌が、梓の口腔内を這い回る。
舌の腹同士がこすりあわされた。
梓と密着している漆黒の下腹部が、欲望を顕著に示して硬く勃ち上がっていることに気付いた途端……梓の腰も、ぞくりと震えた。
漆黒が。
梓を欲してくれている。
嬉しい。
嬉しい。
梓は口を開いて、男の激しいキスを受け入れた。
「梓」
口づけの合間に、名前を呼ばれる。
色香を孕む、低く掠れた声だ。
「ふぁ……あ、あ」
返事をしようとしたのに、また舌を捉えられた。ぴちゃぴちゃと唾液の音が響く。
性技に長けた男のキスに、梓の体はふにゃふにゃになってしまった。
くたりと漆黒にもたれかかる肩を、彼の腕がちから強く抱き留めてくれている。
くちゅ……と淫猥な水音とともに、タバコの味のする唇が離れた。
呼気を乱した梓を、双眸に映して。
バリトンの声が、愛撫のように囁いた。
「梓。おまえを愛してもいいか?」
梓はぼうっと、整った漆黒の顔に見惚れた。
格好良くて、やさしくて。
人気男娼で、大人のこの男が。
梓なんかに、こんな……告白めいたことを言うわけがない。
梓の耳が、どうかしてしまったのだと、思った。
梓はとっさに両耳を塞ぎ、首を横へと降った。
「み、耳が、壊れました……」
梓はおかしい。
たぶん、目も壊れている。
漆黒が、こんなに切羽詰まった表情で梓を見るなんて、有り得ない。
てのひらで耳を覆った梓の、その手首が漆黒の熱い指で掴まれた。
両手首を、男の手で戒められて。
身じろぎをした梓の目を、正面から見つめたまま、漆黒が口を開いた。
「梓。おまえを愛してる。俺に愛させてくれ」
そう言った漆黒が、握ったままの梓の左右の手に、それぞれキスを落としてきた。
「嘘です」
梓の口を、否定の言葉が突いて出た。
「だ、だって」
「おまえが俺を信用できないのは仕方ない。だからいまは、俺の一方通行でいいんだ」
「だって、漆黒さんには、涼香さんがっ」
漆黒の言葉が終わるのを待たずに、梓は強い口調で言い放った。
漆黒が一瞬、虚を突かれたように目を丸くした。
自分で口にしておきながら、梓は今更ながらに涼香の存在を思い出し、唇を噛んだ。
そうだ。漆黒には、本命の女のひとが居るのだ。
なぜ、忘れていたのだろう……。
不意に、漆黒の体が揺れた。
ハッとして彼の顔を見ると……漆黒は肩を揺すって笑っていた。
「なっ……」
なにが可笑しいのかと、梓はついカッとなってしまう。
眉を吊り上げた梓が男の腕の中から這い出そうと、もがくよりも早く。
漆黒の唇が、また梓にちゅっとキスをしてきた。
「梓。それはおまえの勘違いだ」
「え……?」
「俺と涼香は、おまえの考えてるような関係じゃない」
「で、でも、漆黒さんは、涼香さんの指名を優先してるって、青藍さんが言ってました」
「梓。あいつは俺の……警察だった俺の協力者だ」
子どもに言い含めるような口調で、漆黒が梓へと教えてきた。
それから、ほろりと苦い笑みを唇に刻み、梓の体を引き寄せてくる。
「詳しく説明してやりたいが……梓。先におまえを抱きたい」
「で、でも……」
「梓。他にもたぶん、俺に言いたいことがあるよな? でもいまは……おまえが嫌じゃないなら、俺に愛させてくれ」
漆黒が、真摯な声音で囁いて。
言葉通りの、余裕のない瞳を隠し切れない欲望に揺らめかせた。
梓は茫然と、普段よりも雄を感じさせる男の眼差しを受け止めて……。
「嫌なはず、ないじゃないですか」
と、震える声で答えた。
「ぼ、僕のほうが、先に……漆黒さんを好きになったんですから」
梓の語尾は、漆黒の口の中へと消えた。
荒々しいほどの口づけに、梓は酔わされ……。
うっとりと、瞼をおろしたのだった。
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