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第2話 12月21日(金)22時20分 居酒屋・鳳鵬
「もうっ、俺は……ダメな男なんです! 男として生きていけないっ!」
「ちょっと……いったい誰よ、雪村 くんにこんなに飲ませたのは!」
「聡子 さんっ! 聡子さんまで俺を見捨てるんですか!」
雪村聖 は半分しか開いていない目で、同じ課の先輩の聡子を見上げた。狭い視界の中で、美しく整っているはずの聡子の顔が福笑いのように歪んで見える。福笑いは正月の遊びじゃないか、と聖は回らない頭で考えた。
「福笑いなんてしてる場合じゃないんですよ! クリスマスが先じゃないですか!」
「と、突然どうしたのよ」
勢いづいて立ち上がったものの、アルコールの入った身体は言うことをきかず、再びどたばたと椅子へ崩れ落ちる。背中に添えられた聡子の手のぬくもりが切ない。
「もうすぐクリスマスだっていうのに、彼女に振られたんですよ! しかも初めてできた彼女だったのにっ……」
「もう二十回くらい聞いたわ、その話。で、振られた理由って結局なんだったの……って、そんな目で睨まないでよ!」
突然目つきの悪くなった聖に驚いた聡子が、聖と仲の良い同期の三田 に視線で助けを求めた。
「あー、その話は聞いちゃダメですよ」と三田は答える。
「男の沽券に関わる……いや、股間に関わる話で」
「おいいい!」
聡子は「ああ……そういうこと」と叫ぶ聖から視線をそらす。いくらなんでも男としてあまりにもみじめだ。聖はやるせない思いを無理矢理流すように、グラスに残った酒を一気にあおった。
視界が大きく傾き始めたそのとき、カラカラ……と音を立てて居酒屋の引き戸が開かれた。ひんやりとした空気が足元から競うように滑り込む。
色褪せた臙脂色の暖簾をくぐって現れたのは、背が高く肩幅の広いスーツ姿の男だ。形の良いコート、織り目の細かなストール、スリムな革の手袋、短く整えられた髭――安居酒屋には似合わない、上品な出で立ちだった。
「蔵臼 専務! 今日はご出張されていたのでは?」
聡子の声にその場にいた社員が一斉に振り返る。
「予定より早く会議が終わってね。間に合えばと思って来たんだが……」
「皆さんの忘年会に参加したくて、急いで帰ってきたんですよ」
蔵臼の背後から人の良い笑顔が出てきた。専務専属秘書の戸名だ。細身のスーツが身体のラインにぴたりと沿っていて、姿勢の良さが際立つ。
「戸名さんも来られたんですね。まだまだ私たちは大丈夫ですよ。皆さんもいいですよね?」
もちろんでーす、と元気な声があちらこちらから上がる。
蔵臼は安心した様子で、ありがとうと微笑んだ。その笑顔に思わず聖はほうっと息をつく。周囲の社員も同様だった。男も女もアルコールで赤らんだ顔をさらに上気させて放心している。が、すぐに我に返り、争奪戦が始まった。
「蔵臼さん、こちらにいらしてください! 私たちと飲みましょう!」
「戸名さんはこっち!」
人気者はいいなぁ――そんなつぶやきとともに、聖の世界は黒い渦の中に沈んでいった。
「おや……雪村くんはどうしたんだい?」
テーブルに突っ伏したまま微動たりともしない聖のもとへ、ようやく近づくことができた。蔵臼は聡子に声をかける。そう、あくまでさり気なく。
「ああ……どうやらヤケ酒を飲みたくなるようなことがあったようで」
「ほう?」
興味深げに眉を上げた蔵臼に、聡子は三田に目配せをして席を立った。三田は待っていましたとばかりに声を低めて話し出す。
「どうやら勃たなくなったらしいですよ。しかもその原因が、初体験で彼女に『早すぎる!』って言われたストレスのせいなんじゃないかって」
蔵臼は腕を組み、その話にじっと耳を傾けていた。
「可哀想に……そんなくだらない女に引っかかるなんて」
「え?」
低く呟かれた言葉は誰の耳にも届かず、蔵臼は「なんでもないよ」と穏やかに笑う。ふと、聖の足元にくしゃりと丸められた紙が転がっていることに気づき、身をかがめてそれを手に取った。
『こいびとがほしい』
箸袋の上をうねるミミズのような字を解読した蔵臼は、人知れず口の端を引き上げた。
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