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劇場の楽屋裏 1
首都ロンドンの西側、ウェストエンドと呼ばれる商業地区には数多くの劇場が建ちならんでいる。劇場建設ブームにのっとり、新しい劇場は現在でも増え続けている。
その中でも、グラッツェル劇場は今もっとも高い評価を受けている劇場のひとつである。創立してわずか5年、新規参入したばかりのグラッツェル劇場が人々から注目を浴びるには理由があった。ひとつは斬新な舞台装置を劇中に取り入れていること。ふたつ目は、多くの良質なパトロンに恵まれたこと。そして、パトリック・エッガーという新進気鋭の俳優を生み出したことだ。
グラッツェル劇場、楽屋にて。パトリック・エッガーは昨日届けられた、とある手紙を前に頭を悩ませていた。開演時間が迫ってきているというのに、パトリックは私服のままで着替えようとしない。舞台用の化粧道具もすみに追いやられている。
「これが本当に起こったらシェイクスピアもびっくりの酷い脚本だな」
『明日午後4時0分、ハムレットは毒に倒れず、弾丸によって死ぬ』
わずか一文が綴られた手紙。お世辞にも綺麗とは言いがたい筆跡だった。ファンレターには事欠かなかった彼は、きっとこの手紙も自分を賛美する声なのだろうと疑わなかった。美しいエンボス加工の装飾がほどこされた封筒に、彼は見事にだまされたのだ。
パトリックはすぐさま劇場の支配人にこの怪文書を見せた。ただ単に「一文だけで宛名もなく気味が悪い」という理由からだったが、支配人はこれを重く受け止めたようだ。その日のうちに警察へ通報し、明朝から警察官数十人による厳戒態勢がしかれた。
主役に割り当てられた楽屋は不必要なほど広かった。ひとりでダンスレッスンをするには充分な広さだ。なにかと主役をつとめることが多い売れっ子俳優にはいつものことだった。
パトリックは長いこと鏡台の前でうなだれていたが、ついに手紙を放りなげ、部屋のすみに立っている私服警官に物申した。
「……外へ出たい。自由に歩きまわりたい」
「暴漢がいつあなたを狙うかわからないので許可できません」
「ここを出て10歩先の楽屋に行くのもだめ?」
「だめです。許可できません」
「いつまでここに閉じこめておくつもり――」
ふいに楽屋のドアが放たれると、そこには古めかしい衣装に身を包んだ女性が立っていた。幼さを残す顔立ちは18歳そこそこに見える。
「あと1時間半で開演するのに呑気なことね」
「マリア! きみの方から会いにきてくれるなんて……どうして衣装を着てるんだ?」
「はぁ……パトリック、例の手紙で動揺してるのはわかるけど……今日は舞台の最終日でしょう」
「えっ、まさかこの状況で開演するっていうのか? 今朝きいた話とちがう︎ぞ」
ドア付近に立っていた警官は、突然やってきた可憐な訪問者に見とれている。しかし、続けて入ってきた人物を見るやいなや敬礼のポーズをとった。
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