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グラッツェル劇場 1
馬車に揺られること数十分、アンリとジョシュアは劇場地区のウェストエンドに到着した。馬車を降りると、目の前に真紅に彩られた建物が視界に広がった。劇場の規模としては大きすぎず、かといって小さすぎることもない。派手な装いの中にどこか上品さを漂わせている。
「ここがグラッツェル劇場。大通りに面してて目立つだろ」
「うん。あの広場、賑やかだね。なにかの催しもの?」
「グラッツェル劇場の余興じゃないかな。特別な日には正面の広場でお祭りをやるんだ」
芝生が一面に敷かれた広場にはさまざまな余興が行われていた。軽快な音楽を奏でる人々、音楽に合わせて歌い上げる歌手、大技を披露する曲芸師などが観客を賑やかしている。
「ねぇジョシュ、あの人たち何やってるんだろう」
アンリは広場の中央を指差す。正方形に張られたロープの中で屈強な男たちが殴り合いをしていた。ひとりは両腕にタトゥーを入れた大柄の男で、多くの声援を浴びていた。もうひとりは黒褐色の異国人で、彼が技をくり出すたびに猥雑な野次が飛びかっていた。
「ボクシングだよ。見たことない?」
「おれの知ってるボクシングはもっと、こう……野蛮だったような……素手じゃないんだね」
「ルールが厳格化されたんだ。グローブをしていないとリングには立てない」
余興でボクシングをするなど聞いたことがなかった。そもそもボクシングに熱中する客層が劇場に興味を示すだろうか。そんな疑問がアンリの頭に浮かんだ。
「主役は演劇のハムレットなのに野外の余興で盛り上がりすぎじゃない?」
「余興を楽しんで『次もまた来たい』と思わせられればいいんだ。余興の目的は劇場そのものの宣伝だから。チケットはすでに売り切れているしね」
人だかりから大きな歓声とも怒号ともつかない声が上がる。黒褐色の男が勝利したようだ。賭け金を失った観客が悪態をつきながら散りぢりに去っていく。
劇場の入り口付近には、一際目を引く『ハムレット』の巨大看板が設置されている。右手に剣、左手に頭蓋を持った黒衣の男の絵は俳優パトリック・エッガーそのものだった。
開場まであと数分あるが、入場ゲートはすでに人で埋め尽くされていた。
「アンリ、もう劇場に入る?開演時間まで余興を楽しむこともできるけど」
「うーん、そうだな……」
「ちょっとそこの坊っちゃん。いや、黒髪の方のきみ!」
背後からふいに声をかけられる。2人が振り向くと、品のない顔をした商人風の男が立っていた。ジョシュアは眉根を寄せて警戒している。
「何でしょうか」
「ちょっと時間いいかな?君に2、3聞きたいことがあって。ここだと落ち着かないから場所を変えようか。なあに、すぐそこだよ。馬車を少し走らせたとこに僕の仕事場があるんだ。君、顔綺麗だしすぐ一番人気になるよ。さあ、馬車に乗って」
「や、やめてくださいっ!」
ジョシュアは掴まれた腕を振りほどいた。彼が従わないと分かると、商人風の男は舌打ちして去っていった。
掴まれていた彼の腕がかすかに震えているのがわかった。
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