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グラッツェル劇場 4

 ホワイト警部補は焦っていた。犯人が見つからないまま開演時間を迎えてしまったからだ。指揮官の威厳を保つためだろうか、焦りを悟られぬようタバコをふかしてばかりいる。私服警官を総動員して捜査にあたっているが、いまだに見つかる気配がない。  ついに手持ちのタバコが尽きて、舌打ちをした。 「無能とは言わせんぞ……絶対に捕まえてやる」 「失礼いたします! 警部補殿!」 「な、なんだ? 何か見つけたか」  唐突に現れた部下に面食らう。先ほどのセリフを聞かれたのではないかと案じたが、部下の顔はいたって真面目だった。 「予告犯と思しき人物を特定しました」 「本当か! よくやった! それで、その男はどこにいる」 「はい、ご案内します――」 ✳︎ ✳︎ ✳︎  アンリとジョシュアは無事に客席へ着いた。ホール全体が照明で照らされ、喧騒につつまれていた。 「ほら、急がなくてもよかっただろ。まだ出入り口から人がはいってきてる」 「余裕をもって5分前には席についておきたかったんだ」 「うーん、ジョシュってやたらと時間を気にするよね……そういう性格だと疲れない?」 「そんなふうに見える……? オレは元々時間にだらしない方でね。画塾にはよく遅刻してた。見かねた先生がオレに時計をくださったんだよ」  ジョシュアは宝物をあつかうように時計を取り出した。なんの変哲もない懐中時計に見えるが、よくよく観察してみると蓋に『翼をもつ女神』らしき紋章が彫り込まれている。  どう見ても工場生産ではなかった。凝った意匠は時計職人に作らせたものだろう。血のつながりもない教え子に贈る品としてはいささか重すぎるような気がした。 「時計だけで遅刻癖は治らないんじゃ……?」 「いや、自分でも驚くほど改善した。最初は時計をもらったのが嬉しくて、暇さえあれば時刻を見ていた。それがよかったのかも――」  客席の照明がぽつぽつと消えだした。あれだけ雑談を楽しんでいた観客も会話を中断し、静寂につつまれる空間に固唾をのむ。    役者の表情が照明によってありありと映し出される。一昔前のガス灯では照度に限界があったため、舞台だけの照明では足りず、客席側の照明は演目中もつけっぱなしのことが多かった。  やがて白熱電球が用いられるようになると、舞台照明のみで演目を執り行うことが可能になった。客席を消灯したことで観客は演目だけに集中し、また役者も観客が視界に入って意識をそらすことがなくなった。  舞台装置の仕掛けは見事だった。暗転なしで場面転換を違和感なく演出して見せる。冒頭のシーンを終え、宮殿の大広間を模した空間が現れる。上手と下手に大勢の着飾った人々が整列して待機している。彼らの目線は壇上中央の男女2人に注がれていた。  そして、新たな指導者を祝う華やかな門出の舞台に全身黒衣の男が現れる。主人公ハムレット――パトリック・エッガーの登場だ。写真で見るより精悍な顔立ちだった。舞台化粧と役作りの影響もあるだろう。陰気をまとった青年かと思えば、突如高らかに皮肉を言い始める。  パトリックは目まぐるしく変わる主人公の複雑な心理、感情を完璧に演じてみせた。憑依型俳優と呼ばれる彼はまさにハムレットそのものだった。パトリックのことを軽薄な色男と揶揄する者もいるが、舞台の上ではそれを微塵も感じさせない、実力派の俳優だった。

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