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グラッツェル劇場 5
上演開始からわずか1時間弱、アンリは自身の腹部に異変を感じ取った。せっかくいい気分で観劇していたにもかかわらず、腹部への違和感はしだいに悪化していく。いろいろと雰囲気が台無しだった。
「ジョシュ、おれ、お腹痛いからちょっと席外すね」
「えっ……大丈夫か?」
「うん、すぐ戻ってくるから」
限りなく小声で言葉を交わし、縫うように座席から這い出た。小走りに非常口を目指す。出入り口に立っていた職員に何ごとかと聞かれたが「腹がいたい」と伝えるとすぐさま非常用扉を開けて案内してくれた。
案内した職員に礼を言い、厠に駆けこんだ。
(絶対あのまずいコーヒーのせいだ……! そうじゃなきゃ腹痛なんて! 英国人はよくあんな、この世のものとは思えないコーヒーが飲めるな。いや、だれも飲まないし文句も出ないから味が変わらないのか? はぁ……ジョシュの言ってた見どころってもうすぐだよな。それまでに戻って来れないかも……ごめん)
アンリは駆けこんだ時より幾分ましな顔で厠をあとにした。上演中のせいか通路には誰ひとりいなかった。職員たちも最終上演のハムレットを楽しんでいるのかもしれない。こんな日ぐらいは良いだろう。
(いや、喫煙所に人がいるな。……あんまり劇場にはふさわしくない格好だけど)
すり切れたハンチング帽に煤けたシャツ、当て布だらけのボトムスを着た男が背を丸めて座っていた。グラッツェル劇場はチケット代さえ払えば貴族も労働階級も分け隔てなく受け入れるとジョシュアは言っていた。
男は何やらぶつぶつと呟いている。ガラス張りの喫煙所は中の様子が手に取るようにわかった。
(えっ……なんだ、あれ)
男がつと懐から取り出したもの、それは――
「うそ! 拳銃⁉︎」
✳︎ ✳︎ ✳︎
「遅いなあ、アンリ……」
ジョシュアは小さな声で独りごちる。アンリが席を外してから10分以上は経ったはずだ。懐中時計を確認すると、もうすぐ午後4時を回ろうとしていた。そっと席を立った。上演中に中座するのは名残おしいが、いまは友人の身を案じた。
非常口に向かって通路を進もうとすると、数人の男たちに行く手を阻まれた。
「そこまでだ」
一群の正体はホワイト警部補とその部下たちだったが、ジョシュアは知る由もない。
「……どちら様ですか?」
「控え室まで連行しろ」
「えっ、それはどういう……」
両脇に控えていた部下2人が速やかにジョシュアを拘束する。通路側の客が何ごとかとざわつき始めた。他の観客に迷惑はかけられない。ジョシュアはおとなしく従うことにした。
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