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グラッツェル劇場 6
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男はハッとして立ち上がり、声のする方向を見すえた。アンリは思わず口をおさえる。
「……ああ、見られちゃしょうがない」
喫煙所の扉を乱暴にあけ放つと、早足でこちらへにじり寄ってきた。男はポケットに手を突っ込み、キラリと光るものを引き抜いた。
(どうしよう、どうしよう! 逃げなきゃ……!)
「弾丸は限りがあるからさ……どうかナイフで我慢してほしい」
「な、ナイフも弾丸もいりません!」
危機的状況で絞り出したにしては間の抜けたセリフだった。アンリは迷わず逃げようとした――が、恐怖に支配された身体は少しも動かなかった。
男はじわじわと距離をつめる。凶器を持った手はすぐそこまで迫っていた。アンリは思いのほか冷静だった。自分がここで死んだら遺体はパリに移送されるのだろうか、などと考える余裕はあった。気づいたら壁際に追い詰められている。
「オフィーリアは……処女なんだよ。キスもしたことのないような生娘。それを、都合のいいように脚本をねじ曲げて!」
男が文句を言っている内容は、今まさに上演中の『ハムレット』に対するものだった。それも『ハムレットとオフィーリアがキスをする』という演出はジョシュアが言っていた見どころのひとつだ。
「こんな駄作が賞賛されてるだって? 冗談じゃない、世間はどうかしている! 俺が、この、くだらない脚本を変えてみせる――」
「それは脚本家に文句を言いなさい。見ず知らずの少年に凄むことではない」
男の主張は背後から突然さえぎられた。それは、実に張りのある声で――
「誰だ!」
「あなたに名乗る名はない」
そこには、レモンを垂らしたような明るい紅茶色の髪をした若い紳士が立っていた。紳士の立ち居ふるまいの美しさは、見る者に畏敬の念を抱かせた。ウェストの引き締まった燕尾服も、肩にかけられた緋色のサッシュも、白く輝く大理石の杖も、彼の品格を彩る装飾にすぎない。気品にあふれたその姿にアンリは気後れした。男も例外ではなく、一瞬ナイフを持つ手が緩んだほどだ。
紳士は毅然とした態度で男に呼びかける。
「今すぐそのナイフを床に置きなさい」
「い、いやだね! 俺の計画がバレたからには、そいつを、消さないと」
「?? 計画ってなんのこと?」
「とぼけるな! 俺の拳銃を見ただろう!」
男はアンリを恫喝するとナイフを振り下ろした――が、紳士の動きの方が速かった。大理石の杖を男の肘に思いきり叩きつけると、杖は真っ二つに砕け散った。男は殴打された衝撃で片膝をつきナイフを取り落す。紳士は間髪入れず男を突き飛ばし、床に叩き伏せた。
片腕に手傷を負った男を組み伏せるのはそう難しいことではなかった。
「はなせ! 俺にはハムレットを殺す使命があるんだ!」
「……少しばかり大人しくしてもらいます」
言うが早いかみぞおちに一撃をくらわせると、男の咆哮はぴたりと止んだ。白目を向いていてしばらくは起き上がりそうにない。
男が動かないことを確認すると、紳士はアンリの方へと向き直った。
「とんだ災難でしたね。怪我はありませんか?」
「は、はい。助けて頂いてありがとうございます……」
床にへたりこんでいたアンリに手が差し伸べられる。白い手袋を嵌めたしなやかな手は意外なほど力強く、アンリは立ち上がった反動で前のめりになった。先ほどの大立ち回りといい、紳士はずいぶんと喧嘩慣れしているように見える。
「やはり護身用として大理石は脆くていけない」
紳士は杖の残骸を横目に、倒れている男のそばへしゃがみこんだ。男からタイを抜き取り、手際よく両手を縛り上げ拘束する。何から何まで手慣れていた。件の拳銃がふところから姿を現すと、紳士はわずかに緊張の面持ちを見せる。
「ほう、これは……間近で目にするのは初めてだ」
「あっすごい! 警官が持ってるのとは全然ちがう!」
「よしなさい、これは玩具ではありません。銃に憧れる男子の気持ちは分かりますが」
希少な武器をまえに興奮を抑えきれないでいるアンリに紳士は釘をさす。先手を打たれてしまったアンリは顔を紅潮させた。紳士は拳銃とナイフを素早くハンカチでくるむ。
「そういえば。あなた、その制服は――」
「えっ、なんですか?」
「失礼、今聞くべきことではありませんね」
なぜ制服のことを聞かれたのだろうと首をかしげていると、紳士はひょいと男を持ち上げて肩に担いだ。
「さて、この暴漢を運ぶとしましょうか」
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