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グラッツェル劇場 8
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予告犯の男は正式に逮捕され、馬車で護送されていった。私服警官たちは何ごともなかったかのように引き払い、グラッツェル劇場に再び平穏が訪れた。
結局最後まで観られなかったが、『ハムレット 』は無事にフィナーレを迎えた。上演終了後、観劇を終えた観客達がぞろぞろと劇場から出てくる。皆口々に「パトリックの演技力は年々磨きがかかってきている」とか「マリアの歌声に酔いしれた」など無難な感想を言い合っていたのだが、もっとも耳にしたのは「あの2人は懇意らしい」という、噂好きがこぞって取り上げそうな話題だった。
アンリたちはとある馬車の中で今日の出来事をつらつらと振り返っていた。
「災難だったね、ジョシュ」
「うん……なんだか、色々と疲れた」
「また言いがかりをつけられたのでしょう?」
「うっ……は、はい……」
(先生は26、7歳くらいかな。この若さで大学教授かぁ……)
アンリを暴漢から救った紳士――ウィリアムはやはりジョシュアの恩師だった。一連の事件のあと、ジョシュアを通して改めて紹介を受けた。物腰が柔らかく落ち着いた雰囲気は、20代半ばの青年とは思えない。
「今日のような特殊な場面はともかく、普段から『嫌なものは嫌だ』と拒否する意志を強く持たなくては」
「あの、今日一日ジョシュと一緒にいましたけど! 怪しい売人に腕を掴まれて連れて行かれそうになった時『やめてください!』って彼自身が腕を振り払ったんです」
「アンリ……」
「ですから、あまりジョシュを叱らないであげてください」
「叱ったつもりは――いえ、ジョシュアは良い友人を持ちましたね」
ウィリアムは「ふふっ」と笑みをこぼす。まるで我が子の成長を喜ぶ父親のように。
「そういえば先生、仕事はどうなさったんですか?」
「……仕事? ああ、あまりに退屈な内容だったので途中で抜け出してきました」
「えっ、そんな理由で……」
「ジョシュアとの観劇を優先させるべきだった。いまさら後悔しても遅いですが……。そうだ、ジョシュア」
「はい」
「電報で伝えた通り、近いうちに埋め合わせを。一緒に食事でもしましょう。もちろんアンリ、あなたも」
「 そんな、今日お会いしたばかりなのに?」
「かまいませんよ。我が校の生徒で、それもジョシュアの友人なら大歓迎です」
ひとしきり3人で会話を楽しんでいると、御者が目的地に到着したことを告げる。外はすでに陽が沈みかけていた。少年ふたりは馬車を降りてウィリアムを見上げる。
「先生、学生寮まで送っていただいてありがとうございました」
「いいえ……肝心なことばを言い忘れていました。2人とも、入学おめでとう。ローレンス美術学院へようこそ。実りある学校生活となるよう、心から願っています」
ウィリアムを乗せた馬車は木の葉を巻き上げ風のように去っていく。ジョシュアは馬車が完全に視界から消え去るまで、その場を動かなかった。
「ジョシュ、そろそろ行こう。寮が閉まっちゃうよ」
「うん、そうだね。行こうか」
ふたりは夕陽を背に、明日からの期待と不安はひとまず置いて、今日の疲れを癒やすために学生寮へと向かった。
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