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学生寮にて4
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うすい鞄を腕に抱え、ジョシュアはクラウスの部屋に向かっていた。吹き抜けのせいか廊下を歩む足音が異様に響く。ルームメイトでないことを残念がっていたクラウスだが、彼はジョシュアたちと同じ寮に住んでいる。
実のところ、クラウスにああして抱きつかれるのは嫌ではなかった。抱きついて取りとめのない話をしている彼が田舎にいる弟の姿と重なり、むしろ嬉しさが募るのだった。ただ人前でされるのは恥ずかしい。場所を選んでくれるとありがたいのだが、クラウスに言ってきかせるのは至難のわざだった。
部屋をノックすると見慣れぬ人物がドアの隙間から顔を出した。今朝クラウスが言っていたルームメイトの男子のようだ。アジア系と言っていたが、顔立ちそのものは欧州人に近く、肌は透き通るように白い。黒く長いまつげと翼を広げた鷹のような眉が強い印象を与えていた。それでも東洋的な雰囲気を感じ取ったのは左耳のフープイヤリングのせいだろうか。
クラウスが中にいるかどうか聞いてみると、目の前の少年が答えるより先に部屋の奥から「いない!」と返事が返ってきた。聞き間違いようのない甲高い声にジョシュアは苦笑する。イヤリングの少年もつられてクスリと笑い、おどけた調子で言った。
「残念ながらいません。伝言があればどうぞ」
「ふふ、わかった。これ、クラウスの落とし物だから渡しといてくれる?」
「はい、承知しました」
イヤリングの少年は鞄を受け取ると「また夕食で会いましょう」と言ってドアを閉めた。交わした言葉は少なかったが、言葉の端々から感じる育ちの良さと、冗談の通じる柔軟な性格が好印象だった。クラウスの同居人は悪い人間ではなさそうだ。
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翌朝、朝食に向かう途中で金髪の少年が割り込んできた。昨日の小事件のことなどすっかり忘れたようすで朝の挨拶を交わした。もちろん、ジョシュアだけに。アンリには目もくれない。朝食を摂っているあいだ中クラウスの視線はジョシュアに注がれていたが、アンリがたまに目を向けるとかならず視線がかち合うのだった。
クラウスは厚切りのパンにかぶりつき、完全に飲み込む前に新たなパンを口へ運ぶ。口いっぱいに頬張る姿はさながらリスのようだ。パンをふた切れ頬張ったあと新鮮なサラダを貪り食べる。薄切りの肉とスライスしたゆで卵を何枚も重ね、ソースをたっぷりかけてパンに挟み、口の中へ押し込んだ。小さな身体とはいえ成長期の少年である。
指についたソースを舐めようとして――口に持っていきかけた手を止めた。何事もなかったようにフィンガーボウルを引き寄せる。しかし口の周りについたソースには気づかなかったようで、ジョシュアに指摘されたあと恥ずかしそうにナプキンで口を拭った。
「クラウス、昨日は夕食に来なかったな。色々おもしろい話が聞けたのに」
「疲れてたの……眠くって」
クラウスはまぶたをこすり大口を開けてあくびをする。昨日のようにアンリに突っかかってくることはなく、そのことで気を揉んでいたジョシュアも胸をなでおろしていた。
「おもしろい話ってなに?」
「夕食の後、寮生みんなで自己紹介し合ったんだ。新入生だけじゃない、同じ寮にいる上級生もみんな。聞いてみたらロンドン出身とそれ以外の地方出身は半々だったな。留学生も何人か居たよ。ね、アンリ」
まさか自分に話を振ってくるとは思わず、アンリはどもりながら「う、うん」と答えた。
昨夜の談話室は大層な盛り上がりをみせた。総勢50人はいただろうか。座れる場所は限られているため、上級生たちは率先して新入生をソファに座らせた。繊細な彫刻が施されたガラス張りのローテーブルが中心に配置され、蔦をモチーフにした燭台がテーブルに置かれている。ソファや椅子からあぶれた上級生は、貼り替えられたばかりの花柄の壁紙に寄りかかったり、ベルベットの絨毯にあぐらをかいて寛いでいた。
留学生ということもあってか、アンリは故郷のことで質問攻めにあった。パリのファッションのこと――アンリにとって最も答えやすい分野である。英国紳士は堅実な服装ばかりで遊び心がないと批判すると、おおむね賛同を得た。芸術家の卵といっていい彼らは当然か、必然か、自身の身だしなみを整えることに情熱を注ぐのだ。
演劇のこと、人気俳優のことを聞かれると答えに詰まった。なにを隠そう、先日の『ハムレット』自体が数年ぶりの観劇だった。アンリが提供できる話題といえば、創立200年の歴史を持つ国立劇団『コメディ・フランセーズ』の演目を挙げるくらいしかない。それでもまだ見ぬパリに興味を示してくれる少年はいるもので、アンリの話に熱中して耳を傾けるのだった。
真面目な寮生は、いかにも美術学校の生徒らしく印象派の画家について質問した。幼い頃から父に連れられて展覧会 にはよく足を運んだものだ。著名な印象派画家に何度か出くわしたこともある。しかし幼いアンリが彼らの偉大さに関心を寄せるはずもなく、展覧会場を駆けまわって父を苦笑いさせた。アンリにとってはただの笑い話だったが、寮生たちは大いに興味をそそられたらしい。父は美術商のため必然的に芸術家と接する機会が多いのだと言うと「この学校には将来有望な芸術家がたくさんいるってこと伝えといてよ」と念を押されてしまった。
アンリが昨夜の記憶を反芻している最中、ジョシュアは指を折りながら同級生の出身地と生い立ちを挙げている。クラウスの反応は薄く、どこか上の空だった。
「あれ、そういえばヴィクターは? 今さっきまでいたよな」
「とっくに教室。鉛筆を削り忘れたから授業が始まる前に準備するんだって。真面目だねー」
ヴィクターとはクラウスの同居人の名である。昨夜の自己紹介のときにも顔を見せていた。
ジョシュアを挟んだぎこちない関係は、とある授業のあと唐突に終わりを告げる。
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