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授業初日3
午後3時を回ったところでデッサンの手を止めるよう教師が合図する。教室の後ろの壁面にカルトンを立てかけるよう指示した。教師による作品講評の時間だ。1日か数日の短期間で作品を仕上げ、それを教師が皆の前で評価する。画塾でやってきたことみとさして変わりはない。
1クラスの人数は少なく、16名か17名前後。クラス全員の作品が壁に沿って立てかけられる。アンリがカルトンを壁へ置いたとたん、教室内がにわかに騒ついた――
生徒らは、すごい、レベルが違う、などと囁きあっている。公平に評価すべき教師すら驚嘆の声を漏らしていた。昼休みに途中経過を見ていたジョシュアとヴィクターは目を輝かせてアンリのデッサンに魅入っていた。
その緻密かつ繊細なデッサンに誰もがため息を漏らした。難癖のつけようがなく、教師は講評のあいだ中アンリと他の生徒の作品を比べて、「彼のデッサンを見習うように」と褒めそやした。
(みんながおれのデッサンを見ている……)
アンリの胸中は複雑だった。作品講評というと、どうしてもパリの画塾時代のことを思い出してしまう。称賛されること自体は嬉しいのだ。次の作品作りの活力を与えてくれる。問題は、称賛する者がいれば当然ねたむ者もいるということだ。アンリはふと、数週間前に自宅を訪れた3人の忌まわしい顔が脳裏に浮かぶ。しだいにすうっと消滅し、安心しかけたところに新しい顔が浮かんできた、幼さの残る顔と金髪の巻き毛……クラウスだった。
(クラウスはおれの作品に嫉妬するだろうか?)
なんといっても最年少合格者だ。自身の画力には相当な自信があるにちがいなかった。
一方のクラウスはというと――口をかたく結んでアンリの作品を食い入るように見つめていた。自身の講評の順番が回ってきて素直に受け答えはするものの、視線はつねにアンリのデッサンに向いていた。
壁かけ時計が定刻の時報を鳴り響かす。全員の講評が終わり、1日目の授業が閉幕した。
机に散らばった鉛筆をアンリが1本1本筆箱に収めていると、クラスメイトが彼のまわりを取り囲んだ。みな興奮冷めやらぬ表情で我先にと質問やら感想やらを浴びせる。「きみのデッサンだけ世界が違う、素晴らしかった」「フランスじゃどこの画塾に通ってた?」「レベルが違いすぎて自信なくすよ」などなど。
矢つぎ早に質問や感想が飛び交う。どう答えていいものか思案していると、彼らの肩越しに小さな少年の横顔がチラリと見えた。少年の悲痛な顔がアンリの心を突く。
「――ごめん、おれ疲れちゃった。みんなも長時間デッサンしてて疲れたでしょ、お疲れさま。今は帰って休んで、夕食の時に話さない?」
クラスメイトたちはハッとする。天賦の才能を持つ彼でも自分たちと同じように疲労するのだと。思いがけないアンリの提案は少年たちに親近感を抱かせた。その上ねぎらいの言葉をかけてくれる彼にいたく感動して、これ以上の野暮は不要とばかり次々にはけていった。疲労しているのは本当だが、実のところクラウスが気がかりだった。
「お疲れさま、すっかり人気者ですね。そして人の心を操るのがうまい」
何もかも見透かしているようなヴィクターの発言に底知れぬ不快感を覚えた。彼にかまっている暇はない。ヴィクターを無言でキッと睨んで立ち上がり、彼に背中を向けて最前列の席に急いだ。
クラウスは帰り支度もせず、着席したまま微動だにしない。机を挟んで向かい合う形でジョシュアが心配そうに佇んでいる。
「クラウス、なにか答えてくれ。無言のままじゃわからないだろ」
優しく諭すジョシュアの思いやりをよそに、クラウスは押し黙って虚空を見つめている。ジョシュアはこちらへ近づいてくるアンリに気づき助けを求めるように言った。
「アンリ、さっきからクラウスの様子がおかしい――」
「ジョシュ、ちょっと教室の外にいてくれない? クラウスと2人きりで話がしたいんだ」
いきなり教室の外にいろと言われ、ジョシュアはとっさに「えっ?」と聞き返した。普通は何の話をするのか訊く所だが、無粋なことはしなかった。
「わかった、廊下で待ってる」
「ありがとう、すぐ済むから」
「ねえ、わたしは居ていいんですか?」
ヴィクターは手の甲で頬杖をつき事の顛末を見守っていた。
「……きみもだよ。ジョシュ、連れ出して」
「了解」
ヴィクターは悪びれる様子もなくジョシュアに腕を掴まれて退出する。
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