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授業初日4
教室の扉が完全に閉まるのを確認すると、アンリは目の前のうつむいている少年にできるだけ優しく声をかけた。
「おれに言いたいこと、あるんだろ。ジョシュの前じゃ言いにくいことでも何でも言ってみな」
「え…………」
クラウスの虚ろな瞳がにわかに輝きを取り戻す。しかしすぐに目をぎゅっと瞑り、さらには両手で口を覆った。ふたたび目を開いたかと思えば首を横にふって拒絶の仕草をする。少年は話すべきかどうか葛藤している様子だった。意を決して出した声は――震えていた。
「ぼくには存在価値がない……誰にも必要とされてない」
「どうしてそんなこと言うんだ」
涙の粒がぽろぽろとクラウスの頰を流れ落ちる。アンリはすっと白いハンカチを差し出した。繊細なレースが施された婦人用のもの。クラウスは躊躇していたが、おずおずとハンカチを受け取って涙をぬぐい去った。
「……ジョシュときみがルームメイトなのが納得いかなくて、ジョシュときみが楽しそうに話すのが嫌で、手紙の返事を書いてくれないことが不安で、ジョシュがぼくだけを見てくれないのが悲しかった。彼と一緒にいれるだけでよかったのに……きみの存在が気に食わなくて、火がついて……。でも画力じゃアンリにはぜったい勝てないって悟ったから……もう、ぼくの存在価値はないも同然だよ」
「存在価値なんて自分で決めるものじゃないよ」
「でも……」
「きみは誰にも必要とされてないって思い込んでるだけだ。ジョシュに『自分が必要か』って直接きいてみたか? ジョシュがきみのこと『いらない』って言うと思うか?」
目に涙をいっぱい溜め、アンリのことばを一言一句噛みしめている。嗚咽が漏れるのをこらえながらクラウスは言った。
「わ、わかった……ジョシュに、聞いてみる……」
「うん。存在価値がないなんて、気軽に言うものじゃないよ」
ふと、授業前にヴィクターが言っていた忠告を思い出す。言うなら今しかないだろう。
「ああ、そうだ。誤解のないように言っておくけど、ジョシュとおれは友達。きみがジョシュに抱いてる『特別な感情』を尊重するよ」
「えっ、き、気づいてたの?」
「むしろ気づかない方がおかしい」
ハンカチで顔を隠していたが、クラウスの耳は真っ赤だった。
「アンリ……あの……言いたいことが多すぎて何から話せばいいか……頭の中が渋滞してる。いつもこうなんだ……頭の中で思いついたことをぱっと言って、よく考えずに口に出すもんだから……昨日みたいなことが起こる」
「えっと……? 何のこと言ってるんだ?」
「…………鞄ぶつけてごめん、アンリ。それから、いろいろと酷いこと言っちゃって、ごめんなさい」
意外なことばにアンリは目を見開いた。かたくなに拒んでいた彼から謝罪のことばを聞けるとは。
「うん……うん、お互いさまってことで。おれの方こそ酷いこと言ってごめん」
クラウスは気にしてない、の意を込めて首を横にふる。
「ぼくは紳士を気取れるほど大人じゃなかった。相手を貶した上に、自分の思いどおりにならないと癇癪を起こして逃げるなんて……今思うと恥ずかしい……。でもね、いつもあんなふうに癇癪起こしてるわけじゃないよ? 今まで口ゲンカで言い返してきたの、兄以外じゃアンリだけだったから。兄さんに言い返されて、泣いて、お父さんが庇ってくれる。大抵ぼくが勝つんだ……父親を味方につけて兄弟ゲンカなんて、嫌な弟だよね」
自嘲気味にクラウスは言う。
「お兄さんとは仲が悪いの?」
「……うん。お父さんがぼくばっかり甘やかすから、それが気に入らないみたい。それに異母兄弟だしね、仲が悪いのは仕方ない――」
クラウスは急にことばに詰まり、伏し目がちになる。また『何か』と葛藤しているようだ。
「……いま、兄さんの話はあんまりしたくないな……嫌な思い出しか浮かんでこない」
「そうか、わかった」
誰にでも話したくない過去はあるものだ。アンリは深くうなずいた。
(おれだって……リュカの話はしたくない)
「どうしたの、アンリ。悲しそうな顔してるけど」
「い、いや、なんでもない」
心中が顔に出ていたことに自分でも驚いていた。人の気持ちを察するのが苦手そうなクラウスに指摘されるほど、感情が前に出ていたのだ。
「――いい加減ジョシュとヴィクターを待たせてるし、そろそろ出ようか」
「ちょっと待って……こんな顔じゃ、ジョシュに会えないよ。もう少しここに居てもいい?」
ぐずぐずの顔をハンカチで押さえながらクラウスは言った。同居人のヴィクターは眼中にないらしい。
「じゃあ、きみとジョシュの思い出話をきかせて。きみの涙が完全に消えるまで。どこでどう出会ったのか知りたい」
ジョシュアとの思い出話――それを聞いたとたんクラウスの顔がぱっと明るく華やいだ。
✳︎ ✳︎ ✳︎
自分の話で持ちきりだとは夢にも思っていないジョシュアは、従順な犬のごとく教室の扉に背をあずけて待っている。授業終わりの生徒らは、ちらちらと物珍しそうにジョシュアを一瞥していった。彼の容姿は良くも悪くも周りの注目を集めやすい。一方のヴィクターは、ジョシュアの隣で暇な時間を持てあますかのように腕の柔軟体操をしている。
ジョシュアはおずおずと疑問をぶつける。
「キミ、最初に会ったときと印象が違うな……?」
「印象が違う? ジョシュアの勘違いでしょう。わたしはいつもこんな感じですよ」
「そ、そうなのか……」
ヴィクターは両足を前後にひらいて腱を伸ばす。彼にとって棒立ちしている時間はないに等しい。
「それより聞いてください。さっき、すごい剣幕でアンリに睨まれてしまって。『人の心を操るのがうまい』は褒め言葉のつもりだったのに。彼には気にさわる発言だったようです……」
溜息をついて落ち込んでいる風を装っていたが、その実、ヴィクターは反省するどころか「アンリの怒った顔が見れた」とほくそ笑んでいた。
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