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クラウスの回想4

 息子の変わり身のはやさにベルツ氏はあっけにとられている。レムスター卿としては、ジョシュアの境遇だとか出会った経緯だとかをベルツ氏に説明して「クラウスは無理だ」と納得してもらうだけだったのだが。クラウスの反応は予想外だったようで、思わず口角をくいっと上げて白い歯を見せた。 『ベルツさん、ご子息のお預かりはできかねますが、画塾にご紹介することは可能ですよ』 『は、はあ……なるほど……』  『ねえ、ジョシュと一緒の画塾に通いたい! いいでしょ、お父さん』  アーモンド色の瞳をきらきらさせてクラウスは言う。ジョシュアは何がなんだかわからず、クラウスとレムスター卿を交互に見て考えをめぐらせていた。   『クラウス、画塾のことだが……』 『ぼく、ちゃんと勉強する! 絵とか、演劇とかたくさん観たり――』 『ああ、わかったわかった。おまえの好きなようにしなさい』  ベルツ氏は異を唱えようとしたが、息子の意志を尊重すべきと考えたのか、ベルツ氏はそれ以上なにも言わなかった。我が子を芸術界の花形の弟子にする目論見は外れたが、動機はどうあれ、結果的にクラウスが芸術分野に興味を持ってくれたのだ。  ジョシュアは状況が飲み込めないままだったが、クラウスの熱烈な言動が彼の関心をさそった。 『キミ演劇に興味があるの?』 『えっ、えっと……シェイクスピアとか?』 『シェイクスピア! 本当に? オレも好きなんだ、シェイクスピア。クラウスはどの作品が好き?』 ――まずい、とクラウスは焦った。身から出た錆がこんなに早く返ってくるとは。しかしクラウスはシェイクスピアの戯曲を1作だけ知っていた。 『……テンペスト』 『へえ、テンペストか。いいね』 『娘のミランダと、王子を祝福する場面が幻想的でいいよね。女神とかニンフとか、すごく綺麗。でもぼくはミランダと王子が仲良くチェスをしてる場面が一番好き』  それを聞いたレムスター卿が肩を揺らして上品に笑う。何せクラウスの演劇に対する不真面目さを先ほど知らされたばかりである。おそらく美術館の習作を観たのだろう。好きな一幕でチェスの場面をあげるとはマニアックすぎる。また、ベルツ氏は息子の記憶力の良さに感心せざるを得なかった。 『すごい、よく知ってるなあ。キミとは仲良くなれそうだ!』 『う、うん! えへへ……』 『――ふたりとも、話はその辺にして……』  レムスター卿がふたたび呼び鈴を鳴らす。 『お茶にしましょう。温かい紅茶を入れ直しましょうね』  かくして、レムスター卿――ウィリアム・モーティマーの「粋な計らい」は意図せずして大成功を収めたのだった。 ✳︎ ✳︎ ✳︎  すべてを語り終えたクラウスは両腕を上に伸ばし、あくびをした。 「――ああ、しゃべりすぎてのど渇いた!」 「先生はきみのお父さんの知り合いだったのかあ……」 「うん? なんでアンリがレムスター卿のことを知ってるの? しかも『先生』って」 「ああ、このあいだ劇場に行って――」 (いや待てよ……劇場に行った経緯を話すとジョシュと観劇したことがバレるな。せっかく和解したのにこれを話したら台無しだ)  クラウスに伝えて良い情報と良くない情報を、アンリは瞬時に判断した。 「……ジョシュと先生に偶然出会ったんだ。おれそのとき制服着てたから、声かけられてさ。ジョシュと出会ったのはそれが最初。観劇ではもちろん席は別々だったけどね。学校のことをいろいろ話したよ」  情報を取捨選択し、少しの嘘を混ぜた本当の話。ふたりと偶然出会ったのも本当だし制服を着ていたのも本当である。そして本来はジョシュアとウィリアムが行くはずだった観劇をうまい具合に入れ込んだ。 (先生を盾にクラウスの怒りを中和してるみたいで何だか申し訳ないけれど……) 「へえ、どこの劇場? なにを観たの?」 「えっと、グラッツェル劇場……だったかな。演目はハムレット。観劇中にお腹が痛くなっちゃって、実はほとんど観れてないんだ」 「ははは! アンリって意外とお腹弱いんだねえ」 「笑うなよ……こっちは死にそうだったんだから」 (本当に死にそうだった……とくに用を足したあと!)  クラウスは「ごめんごめん」と繰り返したが、ちっとも申し訳さなそうな顔をしていなかった。 「涙の跡はすっかり消えたみたいだし、帰ろう、クラウス」 「うん、あっ、ハンカチ……どうしよう、このまま返すのも悪いし……」 「気にしなくていいよ、これと同じのが半ダースあるから」  アンリはぐしゃぐしゃに濡れたハンカチを綺麗に折って胸ポケットから少し覗かせる。まるで新品同様のハンカチのように品良くポケットに収まっていた。  廊下でさんざん待たされていたジョシュアとヴィクターは教室の扉が開いたとたん、「おそい‼」とふたり同時に叫んだ。

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