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銀髪の紳士3

 というのも、マックスがここへ入り浸っているときに訪ねてきた学生が逃げ帰るというのは今日が初めてではない。もちろん神経の図太い、何ごとにも動じない学生もいるもので、そういう無遠慮な学生たちは本を借りるついでに2人の会話を本棚の隙間から盗み聞きしているのだった。学生寮のような閉鎖的な生活を送っている学生にとって――もっとも附属校とちがって大学は寮に入ることを義務付けていないが――噂話は娯楽のひとつとして成り立っている。話の種に飢えている者たちは話をかじりつくようにして聞き、誇張してとらえ、そしてあっという間に噂話ができあがる。  盗み聞きされて実害を被ったことは何度かあったが、いずれも数日で忘れ去られるような小さな事件ばかりだった。図太い学生のことはともかく、ひかえめで善良な学生たちが蔵書を利用したいときに利用できないのは考えものだった。  ウィリアムとて、この年上の友人をアトリエから締め出すようなことはしたくない。つかの間の休息に話し相手として刺激を与えてくれる存在。信頼しているからこそ相手の問題点をきちんと指摘すべきではないか――そう考えあぐねていると、一向に出ていく素振りを見せない友人が思い出したようにつぶやいた。 「煙草を吸わなけりゃいても良いんだったな」 「……どうしました、まだ話し足りない?」 「おいおい、ウィル……さっきから話の主導権は君が握ってただろう。ボクの話も聞いてくれ。羊のように従順な学生を見ていたら気持ちが萎えてしまったよ」  ウィリアムはすべての窓を閉めてソファに戻ってきた。蔵書利用の件はまたの機会に話すとしよう――幸い時間はたっぷりある。それに「萎えた」と言っている男を慰める手立ては「好きに喋らせる」以外にないのだから。 「彫刻科に新しい教員が配属されたのを知ってるかい」 「ああ、まだお会いしてないけれど、学長の遠縁の方と聞きました。見聞を広めるために数年かけて世界中を周遊していたと」 「ボクもまだ会ったことはない。どうせフランクリンの差し金さ。学部長から学長に選出されて彫刻科の教員が手薄になったからといって……彫刻科なんて人手は充分足りてるだろうに。ボクはね、あのジジイ――失敬、ご老人が私腹を肥やしてるんじゃないかと疑っている。」 「また根拠のない言いがかりを……マックスが美術学部の学部長になれたのは誰のおかげですか」 「ただの繰り上がりだろう。ボクがいつ『学部長になりたい』と言った? わずかばかりの昇給と引き換えに、ただただ責任が増えただけじゃないか。絵画科の学科長に選出された時ですらボクには重みを感じたよ。――うん、話が逸れた、なんの話だったかな?」 「彫刻科の新しい教員について」 「そうそう、それだ」  マックスはポケットから四つ折りの紙を取り出して広げた。紳士の名前らしき文字が赤インクで囲んである。 「君も言ったとおり彼はフランクリンの遠縁で、年齢は20代なかば。彫刻家としての腕前はそこそこだが、行く先々でパトロンが絶えないらしい。相当魅力的な男なんだろうよ。噂ではパトロン同士で彼を取り合って流血沙汰を起こしたとか。なんというか、そいういう方面ではだらしがない男のようだな。パトロンと芸術家はただの契約で結ばれた仲だってことを認識してない奴が多すぎる。肉体関係などもってのほか!」 「マックスはその話を誰から聞いたんです」 「たしかな情報筋から」 「あくまで噂でしょう? 鵜呑みにするのは危険では。もし事実と違っていたら名誉毀損ですよ。『男同士』なんて――」 「パトロンが男だとは言ってないが?」  マックスはふっと笑う。ウィリアムはみずから墓穴を掘ったことに気づいて、取り繕うようにことばを続けた。 「――とにかく、仮にも学生に教えを説く立場の教員がそんな堕落した人であるはずがない」 「ハッハッハ……それはボクへの当てつけかな? この大学の教員でまともなのは君くらいさ。あんまり人を信用するなよ」 「人に信頼されるにはまず相手を信用することだ。会う前から色眼鏡で相手を見ないこと。あなたは人をひねくれた目線でしか見れないから学生たちに敬遠されるんです」 「説教したってどうにもならんよ、生まれついての性分なんでね」  マックスは聞く耳持たずといった態度で腕を組む。 「とにかく、彫刻家の彼が真面目であることを信じます」 「賭けるか?」 「はい? 唐突に何を言い出すんです」 「君が負けたらコヴェント・ガーデンのショコラティエ・チョコレートを――」 「賭けごとは職務違反」  ウィリアムはぴしゃりと要求をはねのけた。 「うん、なに、チョコレート1箱くらいで目くじら立てる奴などいないさ。それに今は休憩中、所定労働時間外。いくらなんでも潔癖すぎやしないか、君。土産物で菓子の一つくらい貰ったことはあるだろう。ほらほら、ウィルもなにか賭けろ」  マックスはソファから身を乗り出して菓子ひとつを賭けの物品として提案してきた。その顔は真剣そのものである。ウィリアムはしばらく逡巡したあと、 「……ああ……うん、では……同じくコヴェント・ガーデンのチーズ店で……」 「チーズ? 種類は?」 「ワインに合うものなら何でも」  楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、予鈴が鳴るとようやくマックスは銀髪を揺らして立ち上がった。廊下から慌ただしい靴音がいくつか響いてくる。 「よし、決まりだな。約束は違えるなよ、紳士として!」  マックスはニヤッと口角を上げて笑う。フロックの裾をたなびかせ、風のように去っていった。  ウィリアムは煙草とオーデコロンの残り香が染みついた空っぽのソファを見つめる。 「チョコレートくらい奢るのに、マックス……」

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