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憩いの場2

「今のうちに行こ、アンリ」  腕にしがみついていたクラウスが小声で耳打ちした。年下の友人は割とドライな性格である。泣き伏している上級生を見てもとくに感じ入るものはないらしい。それどころかちょっと迷惑そうな顔をしてみせた。確かにここへじっとしていては注目されてしまう。ふたりにかける言葉も見つからないし、かけたところで傷に塩を塗りかねないので、その場をしずかに立ち去った。 「ジョシュが一緒だったら声かけられずに済んだのに。見た目が弱そうだから声かけたってことでしょ。ぼくたち舐められてるんだよ、腹立つ!」 「そうかな……でも、ちょっとかわいそうだった」  泣き崩れた上級生の姿が脳内で再生される。 (手脚と首が長く黒髪で、顔は……顔は? さっき見たばかりなのに思い出せない……ああ、ああ! だめだ――彼の顔しか浮かんでこない……)  断片的な記憶がよみがえる。つんと尖った鼻先が目立つ横顔。一筋の涙が頬を伝う。ボリュームのある前髪が彼の瞳を隠していた。涙は突然真っ赤に染まり――彼の細い指がおもむろに前髪をかき上げると―― 「だまされちゃダメ、あれは泣き落としってやつで――ねえ、アンリ大丈夫?」  クラウスは病人のように青ざめた顔をしているアンリの顔をのぞきこんだ。さっきまで普通に話していたのにどうしたことだろう。アンリはこめかみに手を添えて何かに耐えているようすだった。 「頭がいたいの? 医務室に行く?」 「……ううん、おれは平気。もう治った」 「え、ええ……ほんとに? 無理してない?」 「うん、大丈夫。それより早く校外に出よう。また声をかけられないうちに」  アンリは足早に校門へ急いだ。青ざめていた顔にふたたび赤みがさす。青くなったり赤くなったりする顔をクラウスは不思議に思いながらアンリのあとを追った。  向かった先は大学側に程近い、大型画材店。景観保護の観点から、統一されたデザインの建築物が建ち並んでいる区域だ。古い町並みの中にひっそりと、存在を主張しすぎないようにたたずんでいる。外側から見れば寺院のような荘厳さ。よくよく近寄って見てみると看板には画材店と書いてある。窓ガラスを覗けばカウンターに店主らしき男性がいて、にこやかに対応しているのが見えた。  アンリとクラウスは学外に大きな画材屋があると聞きつけて冷やかし半分にやってきたのだった。学外に位置するため、とうぜん一般客も訪れる機会が多い。本来であればジョシュアも同行するはずだったが、実家から送られてきた手紙の返事をすぐにでも書きたいからと断られてしまった。妙なことにクラウスは駄々をこねることなく「そっか、残念。アンリと行ってくるよ」と声をかけただけだった。  扉を開けて入ると、まず目に飛び込んできたのは大型のキャンバス、壁に沿って立てかけられた木材、うず高く積み上げられた石材。さまざまな工具が商品棚を埋め尽くすように置かれている。1階の商品は持ち運ぶのに面倒を要するものばかりだ。  ひとまず1階で買うものはないようなので2階へと続く階段に向かった。上の階から人がおりてくる気配がしたので2人はさっと脇へ避けた。深緑のフロックに、細縞の入ったスラックス。年の割におしゃれな格好をしている。降りてきた人物は細身で脚の長い40から50手前の銀髪の紳士である。このくらいの歳になるとファッションを楽しもうとする者は少なく、シャツ以外は黒一色な紳士が多いのだ。もっとも、おしゃれをしても余程センスがないと「自分の年齢も考えず派手な格好をする痛々しいやつ」と言われるのがオチだった。そんな陰口など無縁とばかりに、紳士は優雅な足取りで階段をくだっていった。  すれ違いざま、異国の芳しい香りがした。アンリは思わず紳士の方へ振り向いた。どこからどう見ても英国紳士然とした中年男性なのだが、彼の身体から放たれる匂いはアジアを彷彿とさせるスパイシーで清涼感のある香りだった。おしゃれな紳士というだけならどこにでもいるしアンリもわざわざ振り向いたりしなかっただろう。どこか艶っぽい色気を感じさせるのはきっとこの香りのせいだ。紳士は1階に降り立つと店主に申しつけた。 「店主、2Bのデッサン鉛筆を仕入れておいてくれ。商品棚が空っぽだ」 「申し訳ありません、グレイ教授。至急発注いたします」 「いやいや、そんなに急いでいないさ。まだストックはあるからね。また来るよ」  手にしていた数本の絵の具の代金を支払い、平謝りの店主をねぎらうようにして紳士は画材店をあとにした。 (教授……大学の教員か)  2階へ到達するころには紳士のことなど忘れてしまっていた。クラウの急かす声は耳に響くのだ。 「アンリ見て! すごい、絵の具がたくさんある!……なんでそんなに無感動なの?」 「ああ、ごめん。パリにはもっと大きな画材屋があるから、そんなに驚くことでもないかな」 「英国にしかない絵の具もあるんだよ?」 「わかった、見てみるよ」

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