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憩いの場3
2階は無数の絵の具、絵筆、パステル、鉛筆が所狭しと並んでいた。画材屋の売れ筋商品が置いてあるため、1階よりも客の密度が高い。下から登ってくる客はいても上の階から下りてくる客はほとんどいなかった。クラウスは主に水彩絵の具の棚を入念にチェックしていた。
「クラウスは水彩絵の具が好きなの?」
「うん、色鉛筆も好き。ここで言っちゃうと睨まれそうだけど、油絵ってあんまり好きじゃないんだ。画塾のときから苦手で……実技試験が油絵じゃなくて本当によかったよ」
最年少合格者という響きから天才少年を想像してしまうが、彼のたゆまぬ努力とさまざまな要因が重なって合格を勝ち取ったのだろう。クラウスは水彩絵の具をいくつか手にとってカゴに入れた。
もっと大きな画材屋を知っているとはいえ、絵の具が敷き詰められた商品棚はアンリも大好きで、見ているだけで満足感を得られる空間だった。
「よし、3階へ行こう」
「えー、もっと見ていたいのに」
「ここへはいつでも来れるよ」
いつまでも2階にとどまっていては日が暮れてしまう。クラウスはまだ探し足りないような顔をしていた。気の進まないクラウスを3階に引っ張っていく。
3階は紙と布の空間だった。紙とはスケッチブックを筆頭に画用紙、色紙のことを指す。画材屋に色とりどりの布と手芸道具が置いてあるのが不思議だった。布を選んでいた学生の会話が聞こえてくる。
「本来――は――を象徴する黒にすべきなんだけど、ぱっと見で主人公って分からせなきゃいけないから――は青色にしよう」
「でも青色だと印象が変わるんじゃ?」
「そうなんだよ……もう1回先生に相談しに行くか」
学生たちは布を抱え階下におりていった。察するに、どうやら舞台芸術の学生御用達らしい。2階に比べて客数が少なく、特定の学生以外は利用しなさそうだった。スケッチブックは当分買わなくてもやっていけるし、授業で使う紙は授業中に配布されることがほとんどだ。足りなければここで買い足せということだろう。
クラウスが布を引っぱり出して質感をたしかめながら言う。
「ジョシュはこういうの好きそうだよね。古典劇の話をする時はいつも『この時代はこんな服を着てた』って楽しそうに説明してくれるんだ。ジョシュも来ればよかったのにね」
「衣装のことまで知ってるのか。詳しいなあ」
演劇へのジョシュアの知識と情熱には常日頃から舌を巻いていた。先ほどからクラウスがしきりにジョシュアを気にしているのは想い人である故だろうか。クラウスの思い悩む姿を見ていれば、あれから進展があったのかと問うまでもない。
ジョシュアはまったくと言っていいほど恋愛に興味がないのである。クラウスがなにか聞き出そうとしても「何それ?」と要領の得ない返事をされるか、真面目な話(多くは授業内容)に終着するかのどちらかだった。当初はその派手な見た目から同級生に避けられていたジョシュアも、生来の真面目な性格と紳士的な物腰によって、皆と打ち解けるのに大して時間はかからなかった。それに演劇について話せる友人が何人かできたようだ。
そんなわけでクラウスは一緒にいる機会が少なくなってしまった。毎日欠かさず顔を合わせて会話できるのは朝食のときぐらいだった。クラウスの微妙な心の変化をジョシュアが気にしている様子はない。
アンリはというと、教室でクラウスと話した一件以来その問題には触れずに過ごしてきた。「クラウスはきみに好意を抱いている」などと、ジョシュアによけいな伝言もしていない。さすがに気づくだろうと思っていたからだ。しかし、アンリのあては外れた。ジョシュアが少しもなびかないのである。とうとうクラウスが不安でやきもきする結果となった。
アンリは同性同士の恋愛については距離をとっている。否定もしなければ肯定もしない。なるべく傍観者でいたいと願った。同性しかいない環境では同性が魅力的に映るという至極かんたんな理由。クラウスだって学校を卒業し社会に出れば異性に惹かれるに決まっている。いっときの気の迷いだ。「兄弟になれ」と契約をせまってくる上級生もきっとその延長線上に過ぎない。学校で起きる同性同士のアレコレはただの『ままごと』なのだ――アンリはそう思っていた。
最上階の4階へと続く階段は薄暗く、どんよりとした雰囲気をまとっていた。アンリの記憶がたしかなら1階に掲げられていた案内板には『4階……石膏像、その他』と書いてあったはず。その他とはなんだろうと考えながらクラウスに話しかけた。
「なんか急に幽霊屋敷みたいな雰囲気になったな」
「や、や、やめてよ! 幽霊なんているわけないでしょ!……ぜ、ぜったいにそんなの信じないから!」
「ごめん、冗談だよ」
冗談めかして言ったつもりが思った以上の成果を上げ、かわいそうなくらいクラウスは怯えている。
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