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憩いの場5

✳︎ ✳︎ ✳︎  体格のよい短髪の少年が上着も羽織らず寮のバルコニーの椅子でゆったりしている。横に流した前髪はわずかに濡れている。上着は椅子の背もたれにかけ風に任せていた。寒さも深まる秋口にバルコニーへ出たがる人間はほかにいなかった。ちょうど出入り口の真上に位置するバルコニーからは下の様子が手に取るようにわかるのだった。そろそろ身体が冷えてきたので室内へ入ろうと立ち上がったところ、見慣れた人物が寮に向かって歩いてくるのが見えた。ヴィクター・シャルマはバルコニーの手すりから身を乗り出して言った。 「アンリ、クラウス、おかえりなさい」 「ヴィクター、寒くない? 上着着たら?」  バルコニーを見上げながらクラウスが指摘する。シャツの袖を折り返して腕を露出させているヴィクターは見るからに季節外れの格好だ。 「いいえ、むしろ涼んでたところです。スポーツ帰りなもので……あとは談話室で。ここで話してたら風邪を引きますよ」 「わかった、すぐ2階に行くね」  ヴィクターは片手を挙げて合図したあと、上着を肩にかけ室内に入っていった。 「ヴィクターはちょっと苦手だな」 「どうして?」 「困ってる人をからかうのが趣味、みたいなモラルに欠けた人間はな……」 「泣いてる人を笑わせるの間違いじゃない? アンリは悪い方に取りすぎだよ」 「物は言いようだな」 「ぼくは嫌いじゃないよ、ユーモアがあって。きみってそんな堅い性格だったっけ」 「おれだってユーモアのある人は好きだよ。とにかく彼と話してると調子が狂うというか。要は相性の問題だな。おれとしてはきみとヴィクターがルームメイトとしてうまくいってることの方が不思議だよ。ぜんぜん性格が違うのに……」 「ぜんぜん性格が違うからでしょ。同じ性格の人間同士がひとつの部屋にいたら同族嫌悪でケンカしちゃうよ」  アンリはほぼすべての寮生と良好な関係を築いているといっていいが、ヴィクターに関しては少し距離をおいていた。皮肉な言い回しや、何かと鼻持ちならない性格が苦手になりつつあった。しかしアンリ以外の寮生たちは「それが彼の個性だ」と称賛すら辞さない。  2階の談話室へ入るとヴィクターがにこやかにふたりを迎えた。ふたことみこと短い会話を交わした。彼とは相性が合わない――一度そう思い込んでしまうとアンリは途端に居心地が悪くなってしまった。それを知ってか知らずしてか、クラウスは新たな知見を得たことを自慢するように本日の戦利品をヴィクターに見せびらかした。新品の絵の具と絵筆、色鉛筆の数々。画材屋の品揃えに驚いたとか、学生以外の一般客がことのほか多いとか、店主はだれに対しても腰が低いとか、クラウスはつらつらと感想をのべた。  いつもなら主題から脱線するのが宿命ともいえる彼の語りが、今日は『画材屋』という主題から逸れていない。ヴィクターが絶妙なタイミングであいづちを打ち、疑問を投げかけ軌道修正するため脱線することがない。年下の友人は話し上手とは言えないが、ヴィクターが聞き上手のためバランスが取れているのだった。これならふたりがルームメイトとして仲良くやっていけるのも頷ける。 (軌道修正って誘導尋問みたいで好きじゃないけど、クラウスにはちょうどいいのかも)  じっさい主題から脱線して「なんの話だったっけ」となるより、ヴィクターに軌道修正してもらう方が彼の満足度も高いように思えた。アンリやジョシュア相手ではこうはいかないだろう。 「わたしはまだ外観しか見てないのですけど、あれだけ大きいと見て回るのも大変でしょう?」 「そうそう、でもメインフロアは2階かな。お客さんもいちばん多かったし。1階と3階は専門分野の人が利用してる感じだった。4階は――」  クラウスはハッとして口をつぐむ。アンリはとっさに助け舟を出した。 「4階に行ってみたらただの倉庫だったよ。薄暗い中に石膏像が何体も並んでてさ……不気味だったよね」 「う、うん。殺風景でがっかりしちゃった」 「おれが幽霊屋敷みたいだって言ったら怯えてたよな、クラウス」 「そんなことないー」 (ぜったい言うなよ、クラウス……)  画材屋の最上階で目にしたことを彼に喋らせてはならない。切迫した目配せが通じたのかクラウスはアンリの意見に同調する形をとった。  今まで黙っていたアンリが急に会話へ参加してきたのでヴィクターは不審に思った。それにクラウスの話の勢いがピタリと止まってしまったことも引っかかる。 「ふたりとも、なにか隠してますか?」 「いいや? ぜんぜん」 「なにも隠してないよ」 「ふーん、ふたりだけの秘密ってことか……まあ、べつにいいですよ。いずれ自分で確かめに行くので」  ヴィクターはおそろしい宣言をした。その顔は秘密裏にいたずらを仕掛けようとする悪童そのものである。 (アレを見てしまったのは偶然に偶然が重なったからで……さすがに毎日あんなことが行われてるはずが――)  アンリはふと逢い引きをしていた青年の『俺たちが先約』ということばを思い出した。先約とは? あの場所は一般人には知られざる逢い引き場所だったのだろうか。万が一『同類』と呼ばれる人々が逢瀬を交わす発展場だとしたら――せっかく蓋をして記憶が蘇らないようにしていたのに思考はとめどなく溢れてくる。

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