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クリスマス前の約束 1

 熱いシャワーを頭から浴びる。全身がほぐれていく心地よさに溜め息がもれた。アンリの周囲は間仕切りの板と花柄のシャワーカーテンで囲まれている。カーテンには不必要なほど刺繍を凝らしてあった。  ここは寮の浴室。薄い間仕切りとカーテン1枚隔てただけの共有空間のため、寮生のやり取りが手に取るようにわかった。間仕切りは天井まで区切られていない。おまけに足元は丸見え。頭と胴体さえ隠せられればマシということだ。浴室と脱衣所をつなぐ扉を開閉する音。誰かが滑って転倒したような音。痛みを訴える声、心配する声、笑い声。普段であれば気にならない音すべてが反響して騒音のようになっていた。  アンリは実家の広い浴槽が恋しかった。お湯をたっぷり溜めて好きなだけ入浴していたい……そんなぜいたくな願いが叶わぬことは百も承知だった。なにせこの寮にはバスタブすらない。ひとり用のせまいシャワー室がずらりと間仕切りのカーテンで区切られているだけ。悠長に身体を清めている暇はない。寮生たちがシャワーの順番待ちをしているためだ。 「あ、石鹸がない……」  石鹸受けに残っていたのは、干しぶどうのように縮こまった石鹸のかたまり。こんな虚しいかたまりをタオルにこすりつけるほどアンリは貧乏くさくはない。どうしたものかと思案していると、隣の間仕切りの隙間から腕が伸びてきた。 「どうぞ。使ったらこちらに返してください」  その手には分厚い石鹸が乗せられていた。泡に覆われた腕はすぐに見当がついた。筋肉質な腕の持ち主は寮内でひとりしかいない。 「ありがとう、ヴィクター」 「どういたしまして」  間仕切り越しにヴィクターから石鹸を受け取る。タオルにたっぷりと石鹸をなすりつけてから返した。 「アンリの前に使った人は不親切ですね。交代のときに持ってきてくれたっていいのに」  ヴィクターもこちらが誰なのか気がついたらしい。姿は見えずとも声で判別できるようだ。 「じゃあお先に」  蛇口を締める音が聞こえた。ヴィクターはシャワーカーテンを開け颯爽と浴室をあとにした。空いたシャワー室は5秒も経たず埋まった。 (身体も洗い終えたし出るか……)  アンリがカーテンを開けたその時だった。脱衣所に向かったはずのヴィクターがいる。列をなしている寮生の後方に。 (あいつ、なんでまだ浴室にいるんだ?)  疑問はすぐに解消された。彼の手に真新しい石鹸が握られていたからだ。 「アンリ、新しいの持ってきましたよ」  ヴィクターは振りをつけて石鹸を放りなげた。石鹸が寮生たちの頭上を飛び越え、アンリの手のひらに収まった。ご満悦の表情を浮かべるヴィクターが憎たらしい。アンリは浴室にいた男子全員の視線を集めることになった。 「いや、ふつうに手渡せよ」 「そんなに怒らなくても。せっかく人が親切にしてあげたのに」  ふたりは脱衣所にいた。先ほどの件について延々と言い争いをしている。 「きみのせいで皆がおれの方を見てた」 「アンリはよっぽど目立つのが嫌いなんですね」  ヴィクターはすでに着替え終わっていた。ゆったりとした寝間着の上からでも身体のたくましさが分かる。 「目立つのは嫌いじゃないよ。留学先では控えようと思っただけ」  急いで寝間着を着たせいだろうか、アンリはボタンをかけ違えている。当の本人は気づいていない。 「あなたは才能を活かすために留学したんでしょう。目立たないように過ごすことになんの意味が?」 「それは……」  答えられない。けっしてだれにも話せない。アンリの堅固な態度はヴィクターにも伝わった。 「わかった、立ち入ったことは聞きません。アンリがみずから話してもいいと思ったら話してください」 (助かった……)  ヴィクターの気取った態度はことあるごとに鼻につく。その一方で、上品な物腰から同級生よりは大人びて見えることも多かった。かといって石鹸を投げてよこす行為は紳士的とは言えないが。 「ところでアンリ、ボタンかけ違えてますよ」 「な……」  アンリは辺りをうかがうようにボタンの位置を直した。それを見てヴィクターはくすくすと笑っている。 「はやく言ってよ!」 「いつ気づくかなと思って」  役者を客席から眺めているような、どこか他人ごとのような態度。観客の多くは鑑賞し終わってから役者にダメ出しをする。しかし今は現実で起こっていることだ。気づいたならすぐに指摘してもいいものを。  いつまでも脱衣所にいるわけにはいかない。暖かな場所を求めて談話室へと移動した。 「混んでるなあ……座る場所がない」  床ならいくらでも場所はあった。しかし冬の床は絨毯の上からでも冷たさが伝わってくる。到底座りたいとは思えなかった。部屋の隅に空席のソファがあったが、暖炉からもっとも離れた場所にある。シャンデリアの明かりも届かないほどだ。人気がないのも納得できる寒々しさだった。 「じゃあ、わたしの部屋に来ます?」  ヴィクターは部屋へと続く階段を指した。 「えー、部屋は寒いだろ」 「廊下で突っ立っているよりマシでしょ。ついでにアンリに見せたいものもあるし」 「見せたいものって?」  彼は階段を一段飛ばしで軽やかに駆け上がった。踊り場につくと笑顔で振り返った。 「きっとあなたの興味をそそるものだと思います」  気づけばヴィクターに連れられて彼の部屋の前まで来ていた。どうせ自室に帰ってもすることがない。同居人のジョシュアは近ごろ部屋を空けがちだった。彼は彼で交流に忙しいようだ。  ヴィクターが部屋のランプをつけた。床が散乱している。ふたつある机のうち、片方の机の乱雑さは持ち主の性格をよく表していた。 「ああ、またあの子は散らかして!」  あきれると同時に憤りの入り混じったような声。アンリは彼の意外な一面を目にした。 「クラウスと同じ部屋なったら大変そうだな」 「まったくですよ。なるべく小言は言わないようにしていたけど、そろそろ限界」  彼はそう言いつつ床の紙くずを拾ってくずかごへ入れる。無造作に置かれた本は手際よく一か所にまとめた。年下のクラウスは面倒見がいい同居人を都合よく利用しているのだった。 「クラウスは多分ジョシュのところへ行ったんでしょう。最近とくに彼と仲がいいみたいですからね」  脱ぎ捨てられたシャツとネクタイをヴィクターが片付けている横で、アンリは光沢のあるオブジェを見つけた。必要最低限のものしか置かれていない彼の机の上。光り輝くトロフィーが異彩をはなっていた。 「ヴィクター、これってフェンシングの優勝杯?」 「優勝杯ならよかったんですが……とにかく、見せたかったものはそれです」  ヴィクターがトロフィーを手にとった。台座のプレートに刻まれた文字を指差す。 「準優勝か! それでもすごいよ。なかなかできることじゃない」 「ありがとう、励みになります」  彼は目を細めた。こころなしか頬が紅潮しているようだった。 「きみがこんなに強いなんて知らなかった」  クラウスからヴィクターの話を聞くことはめったになかった。そもそもスポーツぎらいのクラウスがフェンシングの話をするはずもない。 「みんなに見せびらかすのも気が引けるし……。でも自己顕示欲がないわけじゃない。親しい人にだけ自分が頑張った証を見せたかったんです」 「余裕そうに見せかけて、きみは影で努力する人間だったんだ」 「そう面と向かって言われると照れます」  ヴィクターは恥ずかしそうに小さく笑った。  やがて思い出話になった。ヴィクターが自身の椅子に腰かけ、アンリはクラウスの椅子を借りてくつろいでいる。 「きみはいつからフェンシングをやってたの」 「物心ついたころから親の意向でやらされてました。『男には闘争心が必要だ』なんて言われて」 「あれ、騎士道精神がどうとか言ってなかったか」 「騎士道精神なんてあとづけですよ」

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