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クリスマス前の約束 2
ヴィクターは机の引き出しから1枚の写真を取り出した。親子孫3世代がそろった家族写真だ。男も女も欧州風の正装をしているが、遠い異国の一族と言っても差し支えなかった。中央に座っている女性と小さな少年を除いては。皆が無表情を貫いている中、少年だけは母親のひざの上で笑っていた。ヴィクターは写真の少年を指差して言った。
「フェンシングを始めたのはちょうどこのくらいの歳でした」
「こんなに小さいころから?」
「そうです。当時のわたしは母にべったりの甘えたがりで。それに争いごとを好まない性格だったから、父には女々しく映ったんでしょうね」
母子のとなりに座っている濃い髭を生やした厳しい紳士を指差した。
「最初は父に見放されまいと泣きながら練習をしてました」
「泣きながら? いまのきみからは想像がつかない」
「だれしもはじめは初心者なんです。アンリだって最初から絵の才能があったわけじゃないでしょ」
「うん。でもおれの場合はだれにも強要はされなかった。好きなことをやってたら自然に身についたんだよ。ヴィクターはよく嫌いにならなかったな」
「それは周りの大人たちが支えてくれたおかげ。あ、大人っていうのはフェンシング・クラブに所属している紳士のことです。騎士道精神の何たるかを教えてくれたのも彼らでした」
ヴィクターは家族写真を引き出しに仕舞った。
(どうしてヴィクターは写真を見せてくれたんだ? もしかして本当に見せたかったものはトロフィーじゃなくて写真だったのか?)
「いい人たちなんですよ。いまのわたしがあるのは彼らのおかげと言っても過言じゃない」
自信に満ちあふれた態度、上品な立ち居ふるまい、たくましい肉体。彼はまさに作り上げられた紳士だった。紳士とは自然に生まれてはこない。なぜならば教養こそが紳士を作るからだ。
アンリは『現在のヴィクターを作り出した』フェンシングに興味を覚えた。
「試合を見てみたいな」
「見たいって、本当に? 来てくれるんですか?」
ヴィクターの眼がきらきらと輝き出した。それでも半信半疑なのか、うたがう素振りを見せた。彼が疑うのも無理はない。アンリは以前に勧誘を断ったばかりだ。
「あ、見るだけだよ?」
先手を打つアンリに彼は苦笑した。
「わかってます。……嬉しい、ありがとう」
「フェンシングがどんなものか気になるしな。絵の題材になるかもしれないし」
「いかにもアンリらしい理由だ」
優勝杯をかけた大会は来年の春に執り行われるとヴィクターは話した。
「クリスマス休暇は返上で稽古に明け暮れます」
「よくやるよ……クリスマスを犠牲にするなんておれには無理だ」
「ふつうの家庭ではそうでしょうね」
ヴィクターの顔がわずかに曇った。アンリは先ほどの家族写真を思い浮かべる。
(あんなに厳しそうな家庭ならむしろ行事を大事にしてそうな気がするけど……)
「アンリはクリスマスに何をして過ごすんですか」
「とくに決めてない。親戚が遊びに来るから相手するぐらいかな」
「楽しそうでいいですね」
「小さい女の子ばっかりだぞ? もう毎年うるさくて……」
実家で1、2を争う重大行事だ。いとこたちが騒ぎ立てるのを除けば最高のイベントだった。
「毎年と思わずに『今年で最後かもしれない』って気持ちでいるといいですよ。きっと貴重な思い出になる」
クリスマスの雑談はしばらく続いた。廊下をぞろぞろと歩く音と、談笑する声が扉の向こうから突き抜けてくる。気づくと消灯時間がやってきていた。
「おやすみ、ヴィクター」
「おやすみなさい。それとメリー・クリスマス」
「ああ、メリー・クリスマス!」
笑顔で見送るヴィクターを背にアンリは自室へ急いだ。
(消灯時間ぎりぎりまで話し込むなんてはじめてだ)
アンリが他人の部屋で長時間過ごすことはめったになかった。同居人のジョシュアを除き、自室に招き入れることもしない。
自室に戻る途中でクラウスとすれ違った。裾の長すぎる寝間着がドレスのように床を這っている。彼がこちらに気づく様子はない。アンリの存在など気にもかけず小走りで駆け抜けていった。
(あいつ、熱でもあるのか?)
アンリは不審に感じた。クラウスの顔は耳まで染め上げるほど真っ赤だったのだ。
見回りが来る前に自室に滑り込んだ。アンリはぎょっとした。暗がりの中、ベッドの上で何者かがうごめいているではないか。
「あっ……アンリか……?」
ベッドの上の人物は動揺している。焦りの声が手に取るようにわかった。だんだんと暗闇に目が慣れていくにしたがって、心臓の鼓動が落ち着いてきた。
「ジョシュ、ランプぐらい点けといてよ……泥棒が入ったかと思った」
「ごめん、寝る準備をしてたんだ」
同居人のジョシュアだ。廊下から入り込む明かりのおかげでどうにかジョシュアの顔が判別できた。顔から首筋にかけてうっすらと汗をかいている。
「……もう寝るよ、オレは。ランプ点けてもいいけど明かりは小さくして」
「わかってる」
アンリが部屋のランプを点けたとき、ジョシュアはすでに頭から布団をかぶっていた。さすがにまだ眠りについてはいないだろう。
「さっきヴィクターの部屋に行ってトロフィーを見たよ。フェンシングの大会で準優勝だって。すごいよな。それで来年の大会を観に行く約束をしたんだ……」
ジョシュアの返事はない。呼吸に合わせて布団がかすかに上下しているだけだった。アンリはそっと布団をはぐってみた。
「えっ、もう寝たのか」
同居人はすやすやと寝息をたてて眠っている。彼の寝つきのよさにアンリは呆れてしまった。いちど眠りに入った人間を叩き起こすわけにもいかない。しかたなく机に向かいデッサン道具を手に取った。乳白色のデッサン帳を広げ、クリスマスに思いを馳せる。しばらく考え込んだあと静かに鉛筆を走らせた。
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