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賭けはまだ終わっていない!
クリスマスが間近にせまった12月下旬。雪がちらつく寒空の下、ベネディクト・ユリはベンチに腰かけている。上半身は肩だけ背もたれに預け、浅く腰かけて大股を開いている。あまり行儀がよいとは言えない。講義終わりの学生たちが物珍しそうな視線を投げかけながら通り過ぎていく。ベンチのすぐ後ろには美術学部の本館がそびえ立っていた。
大事そうに抱えていた肩掛け鞄を首から外した。鞄に詰め込まれた大量の書類や教材から目をそらす。ベネディクトは意識が朦朧としていた。指導員から英国の常識を延々と説教され、学校の決まりごとや教員の心得を長々と説明されること早数日。
「窮屈だな。定職に就くってこんなものか!」
いらつく気持ちを抑えなくては。煙草を求めて上着のふところを探ったがなかなか見つからない。両脇のポケットを念入りに探しても出てこない。しまいにベネディクトは舌打ちした。
「――ああ、クソ!」
今朝のできごとを思い返す。下宿先で朝食を摂っている最中、雑用の少年に生温かいスープをかけられてしまった。そのせいで上着のポケットに入っていた煙草は全滅した。
「あのガキに上着を汚されなけりゃ……だいたい大家のしつけがなってないんだ。貧乏下宿だからって馬鹿にしやがって……」
怒り心頭のベネディクトから口汚い言葉が繰り出される。だがそれも長くは続かなかった。とある人物が脳裏をよぎる。穏やかな笑みをたたえる赤髪の紳士――ウィリアムだ。大学に足を踏み入れて初めて親切にしてくれた人。
ウィリアムと対等で話すには同じ水準にいなければならない。罵詈雑言を口にする自分が彼と対等に話せるはずがないのだ。だれが決めたわけでもなく、ベネディクトが勝手にそう思い込んでいるだけである。
「あの人に会いたい」
会おうと思えば会える。そうしないのはウィリアムに対する気づかいだ。彼は役職に就いているし数多くの学生も抱えている。クリスマス休暇前とあって忙しさは段違いだろう。当然ながら新人教員のベネディクトなど相手にしている暇はない。
「だれに会いたいって?」
「ひっ……」
頭上から声が降ってきた。ベネディクトが驚いて見上げると、本館2階の窓際に中年紳士が立っているのが見えた。
「見かけない顔だ。転学してきた学生か?」
「……いいかげん学生呼ばわりされるのも飽きてきたな」
「なにか言ったか?」
「いいえ、なにも」
「じつを言うときみのことはだいたい察しがついているよ」
「さっきから何なんです、あなたは?」
「まあこちらへ上がってきたまえ。悩みを聞いてあげようじゃないか」
「はい?」
「わかるよ。いきなり堅気な職に就く不安とストレス。わたしにも経験がある」
そう言うと細身の中年紳士は部屋の奥へと消えていった。まったくと言っていいほど意思疎通ができない相手に困惑を隠せない。
「まさか……さっきの愚痴、聞かれてた?」
だとしたらまずい。あの紳士の目的がなんにせよ、こちらも弁解をしなくては。
ベネディクトが本館に足を踏み入れた直後、ヴァイオリンを奏でる音が館内に響いた。耳なじみのよい軽快な音色が続く。やがて激しく迫りくるような旋律に変化した。それでいて一切の乱れがない。廊下を進むたび、だんだんと音が明瞭になってくる。ベネディクトはある部屋の前で立ち止まった。
「うん、やっぱりここから聴こえてくる」
扉のプレートに表示された『マクシミリアン・グレイ』の文字を確認する。美しい音色を奏でるのはいったい誰なのか。意を決してノックすると、ぴたりと演奏が鳴りやんでしまった。
「入りたまえ」
声の主は間違いなく先ほどの人物のものだった。入室すると、ふわりと漂う甘い香りがベネディクトの嗅覚を刺激する。そこには優雅にヴァイオリンを構えている紳士がいた。
「ようこそ我がアトリエへ」
部屋主はベネディクトに座るよう促した。ベルベット生地の椅子に浅く腰かける。座った瞬間、テーブルクロスや絨毯に染みついた白檀の香りが漂う。全体的に東洋趣味が漂う空間のなか、ヴァイオリンを手にする彼は不釣り合いな存在だった。
「さっきの曲はヴェルディの『リゴレット』ですよね。第3幕の『女心の歌』、僕も好きです」
「おや……」
ヴァイオリンの手入れをしているマックスの手が止まった。演奏曲を言い当てられると思っていなかったのかひどく驚いている。
「わたしが思っていたよりもきみは教養のある紳士のようだな。安心したよ、ベネディクト・ユリくん」
「なぜ僕の名を?」
「ウィリアムから聞いた。じつに素直な青年だと」
「ウィリアムから?」
「そうだよ。いつ挨拶にくるのかと楽しみにしていてねえ。それが一向に現れないから退屈していたところだ」
「あっ……し、失礼をお許しください。すっかり忘れていたんです!」
ベネディクトは焦った。「だいたい察しがついている」とはそういうことか。ベネディクトの失言を聞くなり教授は大笑いした。
「はははは! 忘れていたって? ウィリアムの言ったとおり素直なやつだな、きみは!」
意外や意外、マックス・グレイは上機嫌である。最高責任者へ無礼な物言いをする下っ端などいつ首切りされてもおかしくはない。
「あなたは教授なのにずいぶんと暇そうですね」
「本当に容赦がないな、きみは?」
「すみません、皮肉を言ったつもりは……単純に疑問だったもので」
「いいさ、研究しない名ばかりの教授なんてこんなものだよ。わたしだって望んでこの職に就いているわけじゃないしな」
「じゃあヴァイオリン奏者が本業ですか」
「ふふん、まさか。これはただの趣味さ」
ケースに収まったヴァイオリンを指先で叩く。
「できれば定職に就かず外国暮らしがよかったが。いろいろあって大学に留まっている次第だ。きみも止むに止まれぬ事情があって英国へやってきたんだろう?」
ヴェネディクトは無言でうなずいた。彼になら話してもいいかもしれない。
「あ……あの、教授」
「なんだ?」
「さっき僕がベンチでうっかり口が滑ってしまった件についてなんですが」
「ああ、わたしもよくあるんだ。対象を口汚く罵ってはウィリアムに叱られているよ」
「あなたが、彼に?」
「意外かね?」
なでつけた銀髪の老獪さと威厳のかたまりのような口髭からは想像がつかない。
「ただ……愚痴を言うにしても場所を弁えたほうがいいな。だれが聞いているかわかったもんじゃない。とくに学生の前では注意したまえ、爆発的に悪評が広がるぞ。きみが悪評をものともしない鋼の精神の持ち主なら止めはしないが」
「肝に銘じます」
「まあそう硬くならずに。これでも吸って落ち着きなさい」
教授は平たい紙箱を差し出した。新品の葉巻が敷き詰められている。
「もらいものだが、わたしの身体には合わなくてね。代わりにきみがもらってくれると嬉しい」
「いいんですか? 1箱いただいて?」
予期せぬ贈り物にベネディクトは歓喜した。なにせ今日は1本も葉巻を吸っていない。
「ありがとうございます」
葉巻を1本つまんで咥えたはいいがマッチを持っていなかった。すると、恐れ多くも教授から火のついたマッチを差し出された。目上の人間がここまで下手に出るとは。さすがのベネディクトも薄気味悪さを感じた。しかし教授は依然として涼しい顔のままだ。
「ユリくん、なにか抱えているものがあるんじゃないかね。悩みがあったらぜひ相談してほしい。もちろんだれにも秘密は漏らさないようにする」
「なにから話せばいいか……」
「最初からぜんぶ話してくれ」
「それじゃあ――」
ベネディクトは思い出話をつらつらと語りはじめた。教授はほくそ笑んだ。彼は最初からこのためにベネディクトを招き入れたのだった。
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