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デュ・ゲール家のクリスマス 1

 英国からはるばる海を越え、アンリは故郷に帰ってきた。パリのターミナル駅に降り立つと、まずデュ・ゲール家の紋章入りの馬車を探す。数分足らずで馬車は見つかった。お仕着せの御者はアンリを視界に入れると恭しくお辞儀をし、主人のために扉をあけた。  アンリは深緑のベレー帽を軍人のごとく左側にかたむけて被っている。馬車の中で大きなあくびをひとつ。弱々しい冬の朝日は眠気覚ましにもならない。運搬用の蒸気自動車が轟音をたてて馬車を抜き去っていったとき、自分はまちがいなくパリへ帰ってきたと実感させられた。馬車の様式美にこだわる英国ではけっして見られぬ光景だった。  自宅に到着して格子の門をくぐると、庭の片隅に複数の馬車が整列して置かれている。馬具を取り外された馬たちは厩舎で休んでいるようだ。  御者に荷物をおろしてもらっていると、邸から制服の使用人がアンリの元へと駆けよってきた。 「ご親戚の方が続々とお邸にお越しですよ。先にごあいさつされますか?」アンリの荷物を抱えて歩き出す。 「いや……ちょっと部屋で休ませてほしい」  使用人はあくまで厚意で言っているのだが、いかんせん主人に対する気づかいが足りないことがあった。  数ヶ月ぶりに自室へ足を踏み入れると――そこにはふたりの男女がいた。青年はよれよれのハンチングを被り作業用の長靴を履いていた。少女のほうは赤銅色の髪をきれいにカールさせ、鮮やかな花飾りのついた髪留めをさして後ろに流していた。アンリなど視界に入っていないとばかりに熱烈なキスを交わしている。アンリはむかむかして平手で部屋の壁を思いっきり叩いた。 「おれの部屋で逢い引きするな」  青年は驚いて顔を上げ、抱き寄せていた腕を離した。少女の方はさして驚いているようすはない。むしろ邪魔されたことを不満に感じているらしかった。 「はあ……残念」少女は乱れた髪の毛を整えながら言う。「ダミアン、もう帰っていいよ」 「え? そんな、クリスマスに招待してくれるって言ったじゃないか」  青年は唖然としている。 「言ったけど気が変わった。帰って――それとも、わたしを怒らせたい?」  にっこりと笑顔を浮かべたまま腕組みをする少女。あわれな青年はひとことも抗議できず、少女に追い返されてしまった。 「おかえり、アンリ。メリークリスマス!」 何ごともなかったかのようにアンリへ向き直った。デュ・ゲール家の次女クロエ。赤銅色の髪の毛が特徴的で、背が高くすらりとしている。女学校では札付きの不良生徒として悪評をほしいままにしている。よくもまあ退校処分にならないものだとアンリはつねづね感心していた。 「あーあ、いいとこだったのに。まあ、あんたの部屋をかくれ場所に使ってたのは謝るよ、ごめん」 「さっきの男はなに?」 「ダミアンは最近雇ったばかりの厩番。彼、身寄りがないんだって。だから今年のクリスマスはダミアンを呼んであげようってなったんだけど……あんたが帰ってくるのをついさっきまで忘れてたんだよね」 「ひどいな……おれの部屋は物置きか?」 「ほら、そうやって嫌な顔するでしょ。ダミアンは見てのとおり正装をもってないし、あんたと彼はぜったいに合いそうもないなって。だから追い返してあげたの」 「そりゃどうも。気がきく姉さんで助かるよ」  クロエの好みはわからない。アンリが渡英する前は銀行員の青年を虜にしていた記憶がある。その前は大病院の跡取り息子に熱を上げていた。てっきり財産のある男にしか目がいかないのかと思いきや、今回のダミアンは身寄りのない厩番だという。 「いくら父さんの心が広くても厩番と付き合うのは反対するだろうな」 「付き合う? 彼はただの遊び相手よ。恋愛と結婚は別で考えなきゃ」  不良娘の身持ちの悪さを父が知ったら卒倒するにちがいない。 「エマとジゼルはなんて言ってる?」 「エマは純粋だからわたしとダミアンの関係を知らないと思う。まだ銀行員の紳士と交際してると信じてるんじゃない? 面倒なのはジゼルよね。昨日もお説教されちゃった。『身分ある女性が使用人とベタベタしてはいけません』って。まるで教師みたい」 「はは、いつもどおりだ。みんな変わってない」 「アンリはちょっと変わった。いい意味でね」 「そう、かな?」  クロエは自信ありげにうなずいた。 「それ、いいベレー帽だね。どこで買ったの?」 「ロンドンの帽子屋」 「へえ、英国にもおしゃれな帽子屋があるんだ。それじゃ、あとで学校の話を聞かせてよ。アンリはちょっと休んでから参加するって伝えておくから」 「ありがとう」 アンリをひとり部屋に残し、次女は早々と廊下に出て一階へと消えていった。 「おれが、いい意味で変わった? 成長したってことか?」 ベレー帽についた砂埃を払いのけながら独りごちる。ベッドに横たわり、姉に言われたことばを脳内で繰り返す。『友達なんていらない』と断言していた過去の自分を思い出す。あの頃は――というより学校に入学する直前まで同年代に対して見下すような態度をとっていた。英国に留学せず、無理にでもアカデミーに通っていたらどうなっていただろう。はたして周りから白い目を向けられながら通えただろうか?  (おれが変わったとすれば、クラスメイトのおかげだ。留学生ってだけでみんな気を遣ってくれてたんだ)  他人を蹴落として優位に立とうとする者はいないし、互いに陰口を叩きあうようなギスギスした関係ではない。物めずらしさで接してくる者もいるが、ただの興味本位にすぎなかった。最初は敵意を向けてきたクラウスでさえ、よくよく話し合って和解したのだ。よい友人たちに恵まれたということだけはハッキリしている。きっと1年後も3年後も変わらず英国へ留学しているだろう。  わずかばかりの時間、眠りについた。長旅の疲れはアンリの眠りを誘発するのに充分だった。  心地よいベッドを堪能するには時間が少なすぎた。だれかがアンリの身体を揺り起こしている。その手はやわらかく、彼の肩をやさしく揺らす。 「……なに……もう時間……?」 窓から差し込む光は昼の陽気に包まれている。まだ青空が見えているではないか。 「疲れてるのにごめんね、起こしちゃって。いとこ達が『アンリを連れてきて』ってうるさいの」  かたわらに控えていた少女が申し訳なさそうに言った。この優しげな声は次女のクロエではない。精一杯の気づかいを見せる柔和な声の正体は、長女のエマだった。父や姉妹たちは起床時間によく長女をよこしてくる。アンリが彼女に対して強気に出られないのを家族はよく理解していた。 「……いいよ。すぐ着替えるから、下で待ってて」  アンリはゆっくり上体を起こして眠気を覚ます。 「あ、絵を描く道具を持ってきてね。きっといとこ達にせがまれるでしょうから……」 「はーい」気のない返事をして着替える準備に取りかかった。  パーティ用の明るい服に着替えた。身内だけの祝い事だ。格式張った服を着ていったら浮いてしまうだろう。デッサン帳と鉛筆を小脇に抱えて、パーティ会場として飾り付けされた応接間へ向かった。

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