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 翌日の午後十一時すぎ。木崎の気分は最悪だった。  明日仕事に行けるのかというほど酩酊したが、それでも決まった時間にはベッドに入っていた。泣きたい気分だった。当然、スマートフォンに連絡はない。いっそ電源を切ってやろうかと思ったが、スマートフォンが目覚ましアラームも担っているため、それができない。木崎は画面を裏に向けて、眠りについた。  午前三時。また、視界がクリアになるように目が覚める。そこにいたのは、やはりユリウスだった。 「ユリウスさぁん」  木崎はベッドの中で情けない声をあげた。ユリウスに撫でてもらいたかったのだ。果たして、淫魔は大きな手で木崎の頭をよしよしと撫でた。木崎の顔がとろんと緩む。目じりから涙がぽろっとこぼれた。 「ユリウスさん、おれ……振られました」 「もう、会わないって言われたのか?」 「別れようって。他に、好きな人ができたからって」 「かわいそうに」  ユリウスの手が木崎の頭を撫でる。手に合わせて、背後で尻尾が揺れていた。ダンスするように。木崎は口の内側を噛んで、必死に涙を我慢していた。 「春奈がいなくなったら、おれ、一人ぼっちです。寂しい……。大好きなのに、なんで……」  目のふちに溜まった木崎の涙を、ユリウスはそっと指先で拭った。木崎が起きあがる。手の甲でごしごし目を擦り、両頬を平手で叩いた。ユリウスが抱き寄せる。 「つらいな。誕生日なのに、悲しいね」 「誕生日……」  木崎はくすんと鼻を鳴らした。自分がとても惨めに思えて、苦しかった。春奈に祝ってもらうんだと思い込んでいたので、その反動で地獄に叩き落された。  その地獄から、どうやらユリウスはやってきたらしい。 「よしよし。春奈さんは、きみの大切な人なんだね」  木崎はユリウスの安定感ある腰に腕を回し、彼の首筋に顔を埋める。抱きしめていると、体の底に熱いものが込みあげてくるのを感じた。 「おれ、春奈が幸せになれるならそれでいいって思いたいけど、思えない……んです。どうして他の男のところに行ってしまうんだって思ってしまう。春奈のこと、殺したかった」  でも殺せなかった、と言って木崎は嗚咽を飲みこんだ。体がばらばらになりそうな感覚。我慢すればするほど、内側から揺さぶるその力が激しくなる。子どものころから我慢してしまう彼は、その感覚にも慣れっこになっていたはずだった。だがこのとき、木崎の体を違う感覚が貫いていた。  解放してもいいんだよ、とその感覚は言っていた。  木崎はユリウスを抱きしめて、春奈、とつぶやいた。ぽろぽろ涙が出てきた。男は泣かないものだ。ふだんは頑なにそう思っているため、本来は涙もろい彼は、いま包みこまれている反動で涙が溢れてくるのを抑えることができなかった。 「春奈さんは、きみの生涯たった一人の女の人だったんだね。これまで他につきあった人がいたとしても、きみの人生にとってはそうなんだね」  そう言って、逞しい腕でぎゅっと抱きしめてくれるユリウスの腕の中で、木崎は丸くなっていた。 「春奈といっしょに、生きていきたいと思ってたのに……」  声が震える。ユリウスは木崎の体を抱いて、ぐずる子どもをあやすように頭を撫でた。 「少し、眠りなさい。眠ると気分が落ち着くよ」 「眠りたくない。怖いんです」 「ぼくがそばにいるから大丈夫。横になってごらん」  木崎はゆっくりとベッドに潜りこんだ。ユリウスが毛布を掛ける。木崎の手をぎゅっと握って、「おやすみ」とささやいた。  木崎は目を閉じた。眠れるはずがない。そう思っていたのに、落ちていくように眠りについていた。    ☆  目を開けると、午前四時だった。三十分ほど経っている。あたりはまだ暗く、朝と夜の境目だ。木崎はベッドの中で身じろぎした。ユリウスさん。もう、いないよな。そう思って寝返りをうつと、そこにユリウスがいた。ベッドの脇に腰を下ろし、暗闇の中で木崎の顔を見ている。 「少しは眠れた?」  木崎はこくりとうなずいた。ユリウスの優しい顔がなぜか妖しく見える。 「ユリウス……さん。醜態を見せちゃって、すみません」 「いいんだよ。ショックだったんだから当然だ。朝までもう少し眠りなさい」 「はい」  そばにいてくれますか、という言葉を飲みこんだ。まだちょっと恥ずかしかったし、抵抗がある。ユリウスは木崎の顔を覗きこみ、ささやいた。 「仁介君。ぼくはきみのこと、地獄からずっと見てたよ。いつも一生懸命で頑張り屋で、恋人のこと大事にしてるとこ、立派だなって思ってたよ。きみはぐちゃぐちゃになりながら、誇り高く歩いている。そんなきみが好きなんだ。きみがつらいことに打ち負かされて地獄に落ちるとき、ぼくはその地獄できみのこと待っていたいって、いつも思ってたよ。そばにいる。ゆっくり眠って、朝の光の中でなら、見えなかったものも見つかるかもしれない。おやすみ、仁介君。誕生日おめでとう」  木崎は目を閉じた。なぜだかわからないが、この人はおれを捨てない、そんな強烈な安心感が体を包んだ。  いつのまにか、また眠っていた。

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