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第56話
先輩のお言葉に甘えて休憩室を使わせてもらう。
「なんで俺と話したいんですか?」
「んー、なんとなく?」
「えっ」
なんとなく、で苦手な場所にまで来てくれるのか。
うわ、嬉しい、どうしよう。
緩みそうになった俺の顔を、蒼くんは覗き込む。
「っていうか、俺、
結構砕けて話してるつもりなんですけど、
七瀬さんは仲良くしてくれないんですか?」
なにそれ、可愛い。
ぶわっと身体が火照った。
でも、砕けて話してるのに
名前の呼び方は「さん」付けなんだ。
なんかちょっとモヤモヤ。
「…七瀬さん…」
俺の呟きに、蒼くんはすぐに反応した。
「あっ、そっか。えっと、名前…」
「…七瀬 真央…」
「真央」
ビクッと肩が跳ねた。
油断してた。
今のはやばかった。
蒼くんはもう少し自分の声に敏感になってほしい。
ああ、けど、もう一回呼んでほしい…。
「真央…、真央先輩…、真央くん?」
と思ったらめちゃくちゃ呼ばれて
俺の身体は完全に火照ってしまった。
本当にずるい。
「真央くんはないかぁ。え、どうしよう」
「真央でいいよ…」
「さすがに、真央とは呼べないって。真央さんでいい?」
真央さん。
なんか、自分の名前じゃないみたいだ。
蒼くんは首を傾げた。
「真央さんは俺の事なんて呼んでるっけ?」
完全に口調が砕けてるのが擽ったい。
azuが他の投稿者にこぞって
「可愛い」「人懐っこい」と言われる理由が分かる。
「えと…蒼くん」
「あは」
蒼はヘラっと笑う。
「蒼でいいよ」
蒼、でいいのか。
呼び捨てしていいのか。
いきなり、そんな、距離を縮めていいのか。
だって、まだ、蒼くんのこと何も知らないのに。
「…そういえば、上の名前って…」
そう、フルネームすら知らない。
「あー、えっと、一葵 蒼です」
「いつき?」
「ん、えっとね、字は……手、貸して」
蒼は俺の手を取ると、指で文字を書き始めた。
白くて細い蒼の指が俺の手のひらの上で踊る。
胸がギュンとした。
やばい。
やばいだろ、これ。
手が震えそうになるのを何とか堪える。
「い、つ、き…」
蒼は一文字ずつ読み上げながら、
丁寧に自分の名前を俺の手の上に綴った。
一葵 蒼。
「綺麗…」
「へ?」
「綺麗な名前…」
「真央さんは?」
蒼は今度は自分の手のひらを俺に差し出した。
「ね、真央ってどんな字?書いて」
うわ。
今度こそ指が震える。
そっと手に触れると、柔らかくてドキドキした。
この手で、音楽を作ってるのか。
一文字一文字、
今まで生きてきた中で一番丁寧に自分の名前を書いた。
「わかった。交代」
蒼は頷くと、俺の手を取る。
「真央さんも、名前、綺麗じゃん」
そう言って微笑んだ蒼にクラクラする。
なんだこれ。
何が起きてるんだ。
「な、な、せ、ま、お…」
誰もいない部屋。
二人だけで。
お互いの手のひらに名前を書き合う。
「ね?」
きゅんとした。
初めて、自分の名前にきゅんとした。
俺の名前を読む、蒼の声にきゅんとした。
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