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第2話
「旦那様。あんじょう可愛がっておくれやす」
キクは蜂巣 に入るなり、畳に敷かれているふかふかの布団の上に男を座らせ、三つ指をついて頭を下げた。
蜂巣、というのは、この淫花廓 の敷地内に点在する六角形の建物のことだ。そこは、客が男娼とのアレコレを愉しむための場所である。
岩城 、という名の美丈夫は、スーツの上を脱ぎながら、口元に皺 を刻んで苦笑いを浮かべた。
彼が淫花廓を訪れるのは初めてであったが、かなりの資産家なようで、重々失礼のないようにと、蜂巣に来る道すがら、男衆 に釘を刺されてしまったキクであった。男衆、というのは、能面を着けた黒衣の男たちで……淫花廓の下働きの総称である。
「いやいや、僕は、今日は話をしに来ただけだから」
やわらかくそう言われ、キクは唖然と顔を上げた。
「そ、そやかてここは、遊郭どす。なんにもせぇへんいうんは……」
「受付のひとにも言ったのだけれどね。僕はその……ヘテロでこれまでは女性しか相手したことがないんだよ。だけど、少し、女性に疲れてね。知人にここを勧められて、興味半分で来てみただけなんだ」
「そ、そんな……」
「本当はきみの後ろに居た、あの髪の長い子……ああいう、大人しそうな子に愚痴を聞いてもらいながら酒でも飲もうと思っていたんだけど……きみがあんまり必死な目をしてたから、ついきみを指名してしまった」
はは、と穏やかに笑う男の目元にも、やわらかな皺があった。
けれどキクは、岩城のやさしい顔よりも、ワイシャツにベスト、という少しラフになった男の、その服の下が気になって、あのスラックスのファスナーを下げて逸物をしゃぶり、勃起したそれで自分の中をこすってくれないかとそんな妄想で頭がいっぱいだったのだが……まさかの会話のみのご所望に、目の前が暗くなる思いだった。
そのとき、蜂巣の扉が外からノックされた。
キクはハッと顔を巡らせ、立ち上がって小走りに扉の方へ行く。
外では、男衆が丸盆に銚子と猪口、そして数種類の小鉢に入ったつまみを持って立っていた。
怪士面 の男衆は、黙ってキクに頭を下げると、静かな足取りで中へと上がり込み、座卓の上に手早くそれらを並べると、岩城へと一礼をして出て行った。
去り際に彼は、
「くれぐれも粗相のないように、と楼主からの言伝です」
とキクの耳元でひっそりと囁いた。
キクはぐっと唇を引き結び、悄然と肩を落として岩城の前に戻ったのだった。
岩城は気持ちよく酒を飲む男である。
胡坐 をかき、クイ、と猪口を傾ける横顔には、年齢を重ねた男の渋みが滲みだしており、キクは度々その立ち昇るような雄のフェロモンに当てられて、後ろが疼くのを感じた。
岩城の相伴に与かり、アルコールも入ったせいか、疼きは徐々に耐えがたいものになってゆく。
「きみのその言葉は……西の方の出身なのかな?」
空になった男の猪口に、キクは酒を注ぎながら「へぇ」と頷いた。
「家が、置き屋やったもんで……男は肩身が狭ぁて、早々に飛び出したんやけど……言葉はなかなか抜けまへんなぁ」
「家を飛び出して、こんなところに? あ、ああ、すまない。ここのルールがよくわかっていなくてね。聞いてはいけないことだったら、そう指摘してくれ」
岩城はうつくしい箸使いで、小鉢の料理を摘みながらキクの顔を横目で見てくる。
キクは首を横に振って、「いいえ」と答えた。
「飛び出してすぐにここに来たわけやあらしまへん」
キクは記憶を辿りながら、淫花廓へ来るまでのあらましをざっくりと語って聞かせた。
キクは実家を飛び出した後、ひとり暮らしを始めた。
居酒屋でバイトをしていたらある日、5つ年上の男にナンパされ、会ったその日に強引に体を繋げられて、あれよあれよという間に部屋に転がり込まれ、そのまま居つかれた。
男のセックスは巧みだった。
キクは呆気なく男に溺れた。
稼ぎのほとんどを男に貢ぐ生活がしばらく続き、キクの貯金が底をつくと、男がウリを斡旋してきた。
彼氏ではない男に抱かれることに最初は抵抗があったキクだったが、すぐに慣れた。目を閉じてやり過ごすだけで金が手に入るのだ。……金はすべて、男の懐に行くのだけれど。
しかし、そんな日々は唐突に終わりを告げた。
男が失踪したのである。
これまでも家に帰って来ない日は多かったため、キクは最初、まったく気にしていなかった。
ひと月してようやく、あれ?、と疑問が涌いてきた。
もしかしてキクは、飽きて捨てられてしまったのだろうか……。
けれど男が居なくなっても、キクはウリをやめることができなかった。
抱かれることに慣れた体が、毎晩のようにペニスを欲したからである。
そして、ウリを続けていたキクの前に暴力団の構成員を名乗る男が現れ……失踪した男の居場所を尋ねてきた。
知らないと答えると、ボコボコに殴られた。
どうやら男は、暴力団の経営するフロント企業の金を持ち逃げしたらしい。
男のイロというだけで、その金はキクの借金になった。
そしてキクは、淫花廓へ売られた、というわけである。
キクは懐かしい絵本を開く気分で、当時のことを岩城へと話した。
すると岩城のやさしげな顔がみるみる歪んで、
「それは……つらかったね」
とキクの手の甲にてのひらを重ね、慰撫するようにゆったりと撫でてきた。
男に触れられたそこから、ゾクゾクと淫靡な感覚が這い上がってくる。
「キクは、阿呆なんどす」
「え?」
「頭が足りんて、よう言われます。せやから、もう、べつになんとも思ってないんどす」
キクはニコニコと笑いながら、じり……と男の方へにじり寄った。
「キクは阿呆やから、痛いことやらはすぐに忘れます。せやからつらいいう感覚はないんやけど……キクを憐れに思わはるんやったら、どうか、キクにお情けをいただけませんやろか……」
銚子を卓上へとことりと置いた手を、キクは岩城の膝の上へと乗せた。
皺のある男の目元が、ひくり、と動くのをキクは見た……。
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