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番外編 手負いの獣も嫁には甘い

オッサンと出会った当初に抱いた、只者じゃない、異様な空気感というのは、実は俺の中で未だに払拭されていない。 多分、これからも払拭されることはないだろう。 それというのも、オッサンが公的機関に勤めているという事がはっきりしても、オッサンが自分の職務内容だとか、部署的なものにつながる情報を一切掲示しないことに帰依している。 それというのはつまり、オッサンは警察内部以外には秘蔵している、一般的に言えば表舞台からは遠い不透明な部分に身を置いているという事だ。 そういう部分を何となく感じ取っている俺は、もう何年も付き合いの続いている今でも、オッサンにその辺の突っ込んだ話を振ったことはない。 だからこそ、何度もあった不可解なオッサンのやつれ方だとか、到底普通の心理状況じゃなさそうなぎらついた視線を持て余していた時だとか、もっと即物的に怪我を負っていた時だとかも、何も聞かずに普通に接してきていた。 しかし、それについて思うところがないかというと、いくらなんでもそんなわけはないのだ。 なぜいきなりこんな話をし始めたのかと言えば、最近、オッサンの帰りが遅いことにある。 仕事先がバーなだけあって出勤が主に午後からの俺は、普段家に帰り着けば灯っている明かりがないことに、ひどく深いため息をついた。 これで大体3か月ほどが経過している。 最初に気付いたのは、暑がりのオッサンが、風呂上りに珍しく服を着ていたことだった。 その時に何げなく声をかけた俺への返事は、「更年期かねえ、今日は暑くねえ気がすんだわ」という、オッサンにはなんとも似合わない言葉だった。 鈍くはない、むしろ、人より多少は鋭いと自称する俺は、この時点で何となく察した。 これは、触れてはいけない領域に抵触しかけている、と。 そしていつものように、しかしさりげなくオッサンの様子を見て過ごしていたが、いつもなら日常に戻る日数をとうに過ぎても、今回のオッサンは張り詰めたままだった。 そして今では、新記録を更新だ。 いい加減、ドライと言われる俺でも心配くらいしたくなる。 冷たい無人の空気を吸い込みながらリビングまで歩くと、俺はテレビの横にある棚から、白い箱を取り出して机の上に置いた。 そして洗面台で手を洗うと、足を投げ出してソファで仮眠をとる。 しばらくすると案の定、寝室にこもっていては絶対に聞き取れないくらいの消音で、オッサンが帰宅してきた。 それに気付いた俺は、逆なでされたようなムカつきを感じながら、オッサンを無言で出迎えてやる。 「うぉう…っ!? ビビったあ…!」 「うっせえ、いつもいつも静かに帰りやがって、気になってしょうがねえ」 「おう、それはすまん…」 「ちっとは待つ方の気にもなってみろっつーんだよ。オッサンも実体験してえってんなら、今度長期的に家出かましてやろうか、ああ?」 「ほんとマジですまんかった反省するから許してください」 まるで叱られた犬みたいに情けなくしおれながら、オッサンが俺に懇願する。 普段は化け物みたいな得体のしれないものを背負ってるくせに、こういう時だけ馬鹿みたいに俺に振り回されている。 …アホみてえ、と思いつつ、俺もそんなオッサンを見てどこか薄暗い満足感を覚えるのだから、割れ鍋に綴じ蓋か。 「はあ…もういい。それより、血生臭せえから風呂入ってこい」 「そんなに臭いするか? やべえなあ、鼻いかれちまったかねえ」 「もともとだろ」 「ひでえ」 ケタケタと笑いながら風呂に向かうオッサンに、俺はため息を一つ零した。 そして、オッサンがシャワーを浴びているうちにと、夕食用に作り置いていた料理を温める。 どうせならとスープを鍋に移してコンロで温めたせいか、気が付いたらオッサンが風呂から上がる音がした。 「ふい~、さっぱりしたぜ~」 首にタオルをかけたオッサンが、服を着た状態で冷蔵庫から酒を出そうとする。 「させねえよ?」 プルタブを開けられたビールの缶をオッサンから奪うと、俺はそれをぐびぐびと飲み干した。 「ああっ、俺のビール…」 「ああっ、じゃねえんだよバカ。良いからさっさと服を脱げ」 「いやん、ハニーのえっち」 「……」 冗談言ってやんわり躱そうとしても無駄だって―の。 俺は断固とした意志を持ってオッサンの服に手をかけると、無理やり引ん剝く。 途中、「あっ馬鹿…!」とかいう声が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだ。 そしてオッサンの素肌が見えたころにはオッサンも勘弁したのか、もう抵抗はなかったので簡単に脱がせられた。 そうして落ち着いてオッサンの素肌を見てみれば、まあ見事に擦り傷だらけ。 よくこの状態でほっぽっておけるよな、というようなピンク色の傷もちらほら見えることに、俺は無性に苛立って、思わず無言になる。 「……」 「あー、あの、これはだなぁ…」 オッサンが、ちょっと困ったような表情を浮かべて、目を泳がせる。 ったく、そういう顔をさせたいわけじゃねえんだよ、馬鹿。 「…今まで俺が、何かオッサンに聞いたことあったか?」 「…」 「これからの俺が、その辺の話に首を突っ込みたがるとでも思うのか?」 「…」 「俺が、何も気づいてないとでも思ってんのか?」 「…いや」 胸の内にこみあげる激情を無視した俺がぽつぽつと問いを投げかけると、オッサンも小さく返事を返した。 わかってんだよ、あんたが話せないことも、話せないことを負い目に感じてるのも、気付いている俺を見て気を遣ってんのも、全部。 それでもな。 「俺は、あんたのパートナーだろうが。せめて怪我くらい隠すな。何も聞かないし、何も言わない。だから、そのくらいはあんたも俺を信用しろよ」 「…おう」 オッサンは、やっぱり少し困ったような表情をして、しかし、しっかりと頷いた。 「…オジサン、やっぱ年取ったんかなぁ…。昔より色々考えちまったわ。心配かけて悪かった」 「…アンタにそんな心配かけさせたのは、俺の所為だろ」 そう言った後すぐに、俺の目頭にいきなり熱いものがこみあげてきた。 そんな自分に俺は、心底驚きながらも慌てて下を向いた。 こんな格好悪いとこ、見せたくねえのに…。 すると、 「…バカ、泣くな」 俺の身体は、いつの間にかオッサンに抱き込まれていた。 そして、半裸でむき出しになった上半身に顔を押し付けられ、その力強い鼓動を直接耳で聞く。まるでオッサンの中にいるような圧倒的な安心感が訪れて、俺の涙は自然と治まっていった。 しかし、どうだろう。 泣いていた時は、素直にオッサンの腕の中が嬉しかったのに、こうして感情が穏やかになれば途端に、目の前に無数に広がる傷が、自分以外 ・・・・ につけられたものだという事にムカつき始めた。 こんなに俺以外の跡をつけやがって、ムカつく…。 決めた。 全部、上書きしてやる。 若干すわった眼で顔を押し付けているオッサンの胸板を見ると、俺はその谷間あたりから左右に走る長い傷に口を近づけると、 「…っぃ!」 歯を突き立てた。 「…っおい、泣いてたと思ったら、今度はもう悪戯か?」 「悪戯じゃねー。勝手に他人の跡つけやがって。マーキングしなおしてるんだよ」 「だからって歯立てるとか、ちと熱烈すぎねえ?」 「うるせ」 そう言葉もそこそこに、俺はもう一度、今度はその下にあった若干深いピンクの傷に口をつける。 また歯を突き立てると思ったのか、オッサンは小さくぴくっと反応したが、あきらめたのか俺を止めることはなかった。 流石にこの痛々しい傷に歯を立てるに躊躇した俺は、代わりに傷に舌を差し込んだ。 風呂に入ってすぐのせいか、俺が思っていたような傷から感じる味というのは姿も形もなかった。 しかしその代わり、表皮よりも高い、肉の温度が舌先から強く伝ってくる。 その温度が、俺の中を走り抜けて、背骨をゾクゾクと揺さぶっているようだ。 「っは……猫みてえだな…」 夢中になって傷をなめている俺を見て、オッサンは俺の頭をくしゃくしゃにする。 そんなオッサンの、苦笑いのような、困ったような何とも言えない表情がさらに俺を煽って、気付けば俺は、すっかりその気になってしまっていた。 そんな欲情しきった俺の表情を確認したオッサンが、 「…はは。なんだ、いつの間にそんなえっろい顔してんだよ」 といいつつも、自らも欲に濡れた瞳をして俺に食らいついてきたのは、まあ、妥当だったと言えるだろう。 その日のオッサンは俺の心配もよそに、馬鹿みたいに元気だったとだけ言っておく。 その後、しばらくしたら例の忙しい期間を抜けたようで、オッサンの態度もすぐ元に戻った。 次の時も無駄な隠し立てしやがったら、今度こそぎゃふんと言わせてやると硬く決意した俺だったが、その決意はどうやら要らなそうだ。 傷が出来たらどんなに小さくてもいちいち報告してきて、ついでに手当まで強請ってくるようにまでなったのだ。 誤算だったが、隠し立てされるよかマシか、と結局オッサンに甘くなってしまう俺なのだった。

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