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prelude5
そんな俺達の様子を視界に入れた先生は、譜面台に開かれていた楽譜を静かに閉じてしまった。
「欧州の朴訥とした田舎、静かな田園に降る細かな絹のように繊細で静かな雨。…キミの弾き方だと、まるで日本の梅雨だ。ジトジトし過ぎです。もっと静かで優しい音を出しましょう」
「…わかりました」
ガツンと衝撃を食らった気分だった。
これは俺自身も気にしている一番の問題点。
『曲の解釈を間違える』
たぶんこんな感じだろう…と自分なりに理解をして弾いても、実際は全然違うという事がよくある。
今のもまさにそれだ。
これが、俺が4番より上に行けない理由。
曲の解釈を間違えれば、それだけで鍵盤へのタッチも変わるし音も変わる。全く違う曲になってしまう。それではダメだ。
以前、木崎さんに言われた事がある。
『お前のその解釈間違いは、経験値の少なさからきているな』
と。
そのあげくが、先日の『恋のお相手』発言に至った訳だが…。
先生にまで指摘されたとなると、これはもう本気でなんとかしなければならない。
自分の不甲斐なさにグッと眉を顰めて鍵盤を眺める。
すると突然、肩にポンっと暖かな手が乗せられた。
ハッと目を見開いて顔を上げると、
「湊君。そんなに落ち込む事はありません。本当なら、高一の君にここまでの事を言うつもりはなかったんです。ですが、君のテクニックはこの年齢にしたら申し分ないところまで来ている。だからこそ、それ以上を吸収できると思ってここまで言ったんです。他の生徒はまだ弾くというテクニック自体が足りない。でも君はもうその領域を越している。だからこその注意なんです。…いえ、注意というより、更に上へ行くための教え、ですね」
そんな事を言われた。
…これはまさか、誉められてる?
茫然と先生の顔を見ていると、視界の隅に映った同班の生徒4人のうち、特に俺に反感を持っている3人が悔しげに顔を歪めたのがわかった。
どうやら気に入らないようだ。
「それではもう一度弾いてみて下さい」
「わかりました」
先生の言葉に、外野を意識の外に押しやり、再度鍵盤に向きなおった。
「これで今日の授業は終了です。また明日」
「有難うございました!」
部屋を出ていく先生を見送って、授業が終わった。
後は各々、予約した個人練習室で時間が許す限り練習をする。
俺もこの後に個人練習室を1室おさえてあった。
さっきから3人分の悪意ある視線を向けられている身としては、ここで世間話に興じるつもりは毛頭なく、早々に教室へ戻ってから練習室へ向かいたい気持ちでいっぱいだ。
そしてその気持ちに逆らうつもりもなく、同班の輪から抜け出して一人さっさと部屋を出た。
「湊響也発見~」
「…っ…」
「あー、こらこら、人の顔見た瞬間走って逃げない」
同班の生徒達から逃れてきたというのに、今度はこの人か。
廊下の角を曲がった瞬間、向こう側から歩いてきた人物に声をかけられ、反射的に来た道を戻ろうと踵を返した。…が…。
「先輩相手にイイ度胸じゃないの~、マイハニー」
揶揄る言葉と共に、後ろから思いっきり肩を掴まれて止められた。
「…誰がハニーですか、誰が」
諦めと疲れで溜息を吐きながら振り返ると、音楽科生徒会副会長でありヴァイオリン科のトップでもある棗彼方の甘ったるい笑顔があった。
いつもの習慣で、ついついその周囲を確認してしまう。
そんな俺の様子に気づいたのか、棗先輩は可愛らしく首を傾げた。と言っても、容姿が可愛く見えるというわけではない。あくまでも“可愛らしい仕草”といった意味での可愛らしく、だ。
「何探してんのさ」
「あなたの相方です」
「…相方って、僕達お笑いコンビじゃないんだから」
誰の事を言っているのかわかったらしい、さすがの棗先輩も苦笑いを浮かべている。
「あなた達二人が揃うとロクな事にならないんです。警戒して当然」
音楽科のトップ二人に関わるたびに面倒臭い事が増えていくのだから、憤然とした表情になってしまうのは仕方がない。
「と、いう事で、失礼します」
肩に置かれた手からスルリと抜け出して歩き出した。のだが…。
「おーっと、響也。俺に挨拶もなくどこへ行く気だ?」
「…………」
出たな、悪の御大 。
今度は背後から、要は俺がさっき来た方向から声がかけられた。
ちなみに何故かヘッドロックまでされている状態。
そして、少し離れた場所からは何やらザワザワとした声まで聞こえてくる。
たぶん、木崎さんと棗先輩の姿を発見した生徒達だろう。…最悪の状況だ。
「木崎さん、俺の命が危ないので離してもらえませんか?」
「もっと可愛くお願いできたら離してやるよ」
「無理です」
真横から耳朶に触れる程の近くで、まるで恋人に睦言を囁くかの如く言葉を放つ相手に、にべもなく拒否をする。
途端に棗先輩が爆笑した。
「皇志が振られた~!響ちゃん最高!」
「…それは、どうも」
やや引き攣り顔になった俺を誰が責めよう。
どうせなら、もっとまともな事で褒められたい。というより、そもそも棗先輩とは関わりたくない。
ゲンナリした気分で溜息を吐くと、未だ背後からヘッドロックを仕掛けたままの木崎さんが耳元で「チッ」と舌打ちをした。そしてスルリと腕が離れていく。
俺が悪いのかよ…と振り返った先、木崎さんの視線が、離れた場所に群がってこちらの様子を窺っている生徒達に向けられている事に気が付いて、舌打ちの意味を知った。
「皇志、あんまり威嚇しちゃダメだよー」
「ウザいんだよアイツ等。ここに何の為に来てんだ」
「基本はやっぱり音楽の勉強でしょう。でも僕達があまりにも素敵男子だから、ついつい心を奪われちゃったんだよねぇ。罪深いなぁもう」
「黙れ」
妙に格好つけた仕草で髪をかき上げた棗先輩に、木崎さんが冷たい視線を向けた。途端に今度は泣き真似を始める。
いちいち芸の細かい人だ。
「あの、すみませんけど、俺これから予約入れてあるんで」
「あぁ、じゃあ俺も一緒に行く」
「はい…?」
それではサヨウナラ、と別れるはずが、何故か当たり前のように木崎さんが後を着いてきた。
棗先輩が「僕も行きたい…」なんて呟いていたが、木崎さんに視線だけで一蹴されて敢えなく撃沈。
そして、困惑に立ち止まっていた俺の腕は木崎さんに引っ張られ、意味がわからないままいつものように個人練習室へと拉致されてしまった。
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