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sonata
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五月下旬ともなれば、放課後になってもまだまだ陽は落ちず、辺りには緑の爽やかな空気が漂っている。
今日の練習室の予約は、19時半から。
15時半である今、久し振りにポッカリと時間が空いてしまい、日頃の窮屈な視線から逃亡しようと中庭へ向かった。
この中庭は、普通科の生徒達がいる一般棟校舎と、音楽科の生徒達がいる音楽棟校舎の中間地点にあり、暗黙的に双方に対しての壁の役割を果たしている。
かなりの広さを有し、木々の緑と美しい草花、そして噴水と池と遊歩道がある。
そんな優雅な場所にも関わらず、普通科と音楽科の生徒それぞれがお互いにここで鉢合わせをしたくないと思っている為、ほとんどの者はここに足を踏み入れる事はない。
そんな特性を逆手に取り、人気 がなく、なおかつ居心地の良いこの場所を訪れるのは週に一度くらい。
特に、こんな気持ちの良い天気の放課後は、中庭で過ごすにはまさにうってつけの時間だった。
緑に囲まれた遊歩道を歩きながら深く呼吸をすると、音楽棟にいる時には感じられない自然の清々しい空気が胸を満たしてくれる。それだけで体がリラックスするのがわかる。
離れた場所から聞こえる噴水の音。そして、そこから池に向かって流れる小川のせせらぎ。
そんな音を聞きながら、左右に植えられている木々の葉に手を伸ばす。
肉厚のそれに戯れるように触れながら感触を味わっている間は、ここが学校の中庭だなんて事を忘れてしまいそうだ。
その時。
「…ッ…」
さっと手を横に動かした事によって、偶然にもそこに混ざっていた別の固い葉の縁で指先をざっくりと切ってしまった。
勢いよく動かしたせいか思った以上に切れたらしい。少し間をあけた後、右手の人差指と中指の腹からブワッと血が盛り上がり、指に沿って流れ落ちる。
葉っぱなのに切れ味抜群。…なんて感心している場合ではない。
「最悪」
右手を目の前に引き寄せて血の流れる指先を見た瞬間、痛みよりも何よりも、ある一つの映像が頭に浮かんだ。
…佐藤先生に殺される…。
明日の授業で、この痛みに気を取られておかしな音を出してしまったら…と考えると、これはもう風邪を偽って休んでしまった方がいいんじゃないだろうか…、なんて事さえ思ってしまう。
『ケガをして音を濁らせるなんて言語道断ですよ、湊君』
そんな佐藤先生の声が聞こえるようだ。
幸いな事に、血はそれ以上流れる事はなくすぐに止まったものの、痛みと傷口まで消える訳ではなく…。
保健室に行ったら佐藤先生に伝わるだろうし、…本当に最悪だ。
頭の高さ程の木々に囲まれた遊歩道の途中で立ち止まったまま、溜息混じりに項垂れた。
「どうした?」
突然背後から聞こえた声に、勢いよく顔を上げて振り向いた。
俺も驚いたけれど、凄い勢いで振り向いた俺の行動に相手も驚いたらしい。見知らぬ生徒が数メートル後ろで立ち止まり、目を見開いたのがわかった。
身長は木崎さんと同じくらいか、もしかしたらそれよりも高いかもしれない。
体格は良く、何かの武道をやっていると言われても納得できる姿。
黒髪短髪で非常に物腰の落ち着いた、でもどこかしら迫力を漂わせている人物。
通常なら、適当に言葉を交わしていたかもしれない。
だが、この相手にそれは出来なかった。
「…普通科の…」
思わず口から零れ出た言葉が聞こえたのか、その人物の眉間にグッと皺が寄る。
そう、相手が着ている制服は濃灰の学ラン。
俺が着ているのは濃紺の学ラン。
彼は普通科の生徒だった。
音楽科は普通科を見下し、普通科は音楽科を我儘坊ちゃん集団と蔑んでいる為、双方の仲が宜しくないのは周知の事実。
特に、なんらかの肩書きを持つ人間は余計に気をつけなければならない。
要は、ピアノ科4番の肩書を持つ俺は、出来る限り普通科の人間と関わらないようにしなければならない、という事。
そもそも俺は、普通科音楽科に限らず、親しくなった人間以外とはあまり関わりたくないと思っている。
その態度を“お高くとまっている”と、音楽科の生徒達に言われているのは知っているけど、そんな事は気にもならない。
とにかく、ここは何事もなかったように軽く躱すのが妥当なところだろう。
いまだこちらの出方を窺うように次の行動を見せない相手から身をひるがえし、遊歩道の先に向かって走り出した。
この先に二叉路がある。そこを左側へ行けば音楽棟へ戻れる。
だが、その目論見は数秒で泡となって消えた。
「待ちなさい」
「…ッ…なに…、離して下さい」
背が高いせいか一歩の幅が大きいようで、追いついてきた相手に後ろから腕を掴まれてしまった。
先に走り出したのに追いつかれてしまったなんて、情けないにも程がある。
相手が普通科の生徒ならば尚更の事、居たたまれない。
常日頃から、普通科が音楽科の事を“男らしくない”と言っているのを知っている。
だからこそ、簡単に捕まってしまった事で
『音楽なんてチャラいものばかりやってるから、ひ弱になるんだ』
そう言われているような気がした。
被害妄想だとわかっていても、中等部からの因縁による感情の波は、そう簡単には覆せない。
腕を掴む力は、強引ではあるが無闇な強さではない。
たぶん、こっちが音楽科の生徒だとわかっているからこその手加減。
その心遣いを逆手にとって、無理やり腕を振り解いた。
「普通科の人が俺になんの用があるんですか?目障りだというのなら、今すぐここから出ていくので放っておいて下さい」
警戒をしながらジリジリと後退る。
そんな俺の様子を見ていた相手は、唐突に苦笑いを浮かべた。
そうするとさっきまでの気迫は薄れ、少しだけ優しい空気が醸し出される。
「警戒心旺盛な猫みたいな子だな。…安心しなさい。指の手当てをしたいだけだ。怪我をしたんだろ?」
「………え…?」
落ち着いた声と、嘘ではない事がわかる穏やかな眼差しに、自分の中から逃げだしたい気持ちが薄れていくのがわかった。
怪我の事に気がついていたのか…とか、何故普通科の生徒が俺に優しくしようとするんだ…とか。疑問が次々と頭の中を過ぎっては消えていく。
茫然と立ち尽くす様子をどう思ったのかはわからないが、暫し何かを考えるように思慮深い眼差しを向けてきていた相手は、驚かさないようにという配慮からなのか、ゆっくりと手を伸ばして優しく俺の手首を掴んできた。
その行動をただ見つめる事しか出来ない俺は、なんて間抜けな状態だったろう。
それでも相手は笑う事もせず、俺の腕を引いたまま何処かに向かって歩き出した。
どういった現象か、それに抗う事もせず大人しく着いていく自分が不思議だった。
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