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sonata2

「…どうした?」 「………」 ある程度の場所まで来た時から、自分がどこに向かって連れて行かれてるのかには気付いていた。 その時に逃げ出しておけば良かった。 目の前にある一般棟保健室の扉を目の前にそんな後悔をしても、もう遅い。 そのままスンナリ入ると思っていたらしい相手は、俺が無理やり立ち止まった事で腕を引っ張られるような形で立ち止まった。 普通科の生徒が過ごしている一般棟の保健室。 こんな部屋に抵抗もなく入れるわけがない。見つかったら、睨まれるだけでは済まないだろう。冗談じゃない。 俺が大人しく従っていた事で気を緩めていたらしい相手の手からは、力が抜けている。 掴まれている腕を振り払って帰るなら今しかない。 そう決めると、すぐさま肘を曲げて腕を振り上げ、相手の拘束から逃れた。 スルリと抜けた腕に相手が一瞬目を見張ったのが見えたけれど、それを確認するより先に踵を返して走り出す。…はずが…。 「待ちなさい!」 一喝するような低く鋭い声と同時に、後ろからグンっと引きとめられた。 身体能力の高さが窺い知れる、あまりにも早すぎる反応。 またしても逃げる事は叶わなかった…と歯噛みするよりも前に、ある一つの事に気を取られて身動きをする事が出来なくなった。 引き止められるかもしれない、とは思ったものの、まさかこういう引き止め方をされるとは…。 立ち止まった状態で視線を下におとす。 背後から回された腕が腹に回り、そして背中に感じる人の体温。 …そう、俺を捕まえようと咄嗟に動き出した相手は、本人も意識しての事ではないだろうけれど、それでもどこからどう見ても“後ろから抱きよせる”という形を取っていた。 硬直する俺に気付いていないのか、再度捕まえる事が出来たという現状に安堵したらしく、頭の上から溜息が聞こえてくる。 「…今日は保健医もいなければ、それを知っている生徒達も来ない。だから安心しなさい」 「………」 まぁ当たり前かもしれないけれど、相手はなんで俺が逃げようとしていたのかわかっていたようだ。 今日は普通科の人間は誰一人として来ない。だから安心して手当てを受けなさい。 と、そういう事らしい。 そこまで聞いて、ようやく抵抗の意思が和らいだ。 どういう意図で親切にしてくれるのかはわからないけれど、なんとなく、この人物は信用しても大丈夫のような気がする。 俺の体から力が抜けた事がわかったのか、腹に回された腕と、背後にあった少し高めの体温が同時に離れていった。 そして、ガチャリと開けられた扉。 先に中へ入っていく相手の数歩後を追って保健室に足を踏み入れると、先ほど言われたとおり、そこはもぬけの空だった。 生徒どころか保健医もいない。 空気に溶け込む消毒液の匂いが音楽棟の保健室と全く同じで、それが心を落ち着かせる。 「そこの椅子に」 「………」 示されたのは、黒い革張りの丸い回転椅子。 小さく頭を下げてそこに座ると、相手の目元が柔らかく笑んだ。 近くに並んでいる処置器具の中からピンセットを取り出し、円筒状のビンの中から消毒液に浸されている丸い綿を摘まみだしている。 「手を」 端的な言葉に従って傷口のある右手を目の前に立つ相手へ差し出すと、怪我の手当てに慣れているのか、少しの躊躇いもなく傷口に消毒液を塗布された。 ハッキリ言って痛い。傷口に消毒液が付いて痛くないわけがない。 だけど、この相手に無様な姿を見せたくなかった。 ピクリと眉が動いてしまったものの、なんとかそれだけに留めて平静を装う。 …痛くない痛くない…。 奥歯をグッと噛みしめて横を向き、意識を外へ逸らす。 そんな風に気を紛らわせていると、突然妙な声が耳に入ってきた。 「…ッククク」 気付けばもう指の消毒は終わっていて、後は絆創膏かガーゼを貼るだけとなっている。 自分の指を見た流れで視線を上にあげていくと、明らかに笑いを堪えている相手の姿が視界に入った。 この人もこんな風に笑うんだ…。 そんな事を思いながらも、この場合、笑われているのは確実に俺だとわかるだけに、のんきに和む事も出来ない。 ジロリと睨んでいる事に気が付いたのか、相手は咳払いと共に笑いを消し去った。 「すまない。…痛いのなら痛いという顔をすればいいものを」 「………」 必死になんでもないような顔を取り繕っていた事がバレていた。これは恥ずかしい。 ジワリジワリと熱くなる頬を隠すように、差し出していた手を手元に引き寄せて横を向いた。 「…何故、ですか」 「何故?」 「俺が音楽科の人間だとわかっているのに、何故こんな事をするんですか」 用意されていた絆創膏に手を伸ばしながら、それまでに感じていた疑問を口にすると、掴んだはずの絆創膏はまた手から奪われてしまった。 なんで…、そう言おうと口を開けば、それより先に相手の言葉が落ちてきた。 「怪我をしてる者の手当てをするのは、当たり前だろう」 俺の手を掴み、外装から取り出した絆創膏を丁寧に指に巻きつけながら言った相手の言葉に、ハッと目を瞠った。 …あぁ…、この人はこの学院には珍しいくらいに普通の感覚を持った人なんだ。 怪我人の手当てをするのは当たり前。 そんな普通の事を新鮮に思える自分が、すっかりこの学院の悪習に染まってしまっていたのだとようやく気が付いた。 この学院の考え方に染まってなるものか、そう思っていたのに…。 音楽科だからとか普通科だからとか、そこがもうこの学院の考え方だという事を今更ながらに自覚させられた。 「…すみませんでした」 頭を下げると、相手はそんな俺を不思議そうに見るだけ。 ピンセットを使用済み器具入れのビンに入れて片付けながら、もう片方の手で俺の頭をグシャリと撫でてきた。 それに心地良さを感じた自分の感覚がよくわからない。 「ここにいる以上仕方がない事かもしれないが、あまり深く考え過ぎない事だ」 穏やかで落ち着きのある声に、素直に頷いた。 「有難うございました」 お礼を言って、保健室の前で別れた。 中庭まで送ろう、という気遣いを辞退したのは、相手が普通科の生徒だから…という理由ではなく、ただ単に恐縮しての事。 高一の自分と同じ学年とは思えない相手、どう見ても明らかに先輩だ。 失礼な態度を取ったあげくに傷の手当までしてもらっておきながら、更に中庭まで送ってもらうなんて、そんな事をしてもらうほど俺は大層な人間じゃない。 最後にもう一度頭を下げてから、足早に普通科の校舎を後にした。 「おい、今のって湊響也じゃないか?」 「え? 一般棟から出てきた奴?」 「まさか。そんな訳ないだろ」 「僕もしっかり顔見たよ。絶対に湊響也だった」 「「「「………」」」」 濃紺の学ランを着た少年が4人。 もう姿の見えない響也が戻っていった音楽棟の入口を、睨むようにジッと見つめていた。

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