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sonata8
§・・§・・§・・§
「あら~、湊君。ご機嫌~いかが~?」
夕方。全ての授業が終わって練習室へ向かう廊下の途中。
目の前から歩いてきた声楽科の教師が、妙な節と音程をつけて、まるで歌うように話しかけてきた。
毎度の事とはいえ、この話し方には慣れない。
「あ、はい、まぁ、そこそこ」
口元を引き攣らせながらも挨拶を返すと、「頑張って~ね~」、と、やはり歌うように言いながら手を振って横を通り過ぎていった。
背が高くて体格も良く、更にはそのゴツイ強面も手伝ってか、一見して堅気の人間には見えない。それなのに口を開くとあれだ。
さすが声楽科の教師、といったところか。いつも歌っている。
そもそも、声楽科は教師も生徒も変わった人間が多い。
風紀委員長で声楽科次席の御厨先輩もそうだが、本来なら風紀委員長になっていたはずの声楽科トップの柳 先輩など、その変人振りのせいで風紀委員長になれなかったというくらいに凄まじいまでの変人振り、らしい。
そういう意味ではピアノ科がまともで良かった…、と思うのは自分だけではないだろう。
そんな事を考えながら予約してある練習室に向かうと、そこには頭の痛くなるような光景が広がっていた。
扉の前に、生徒達が鈴なりに群がっている。
非常に嫌な予感がしてきた。そして、その予感はたぶん当たっている。
溜息を吐きながらそこへ向かうと、俺に気付いた生徒達がサーッと左右に別れる。
まるでモーゼの十戒状態。
左右からヒシヒシと感じる視線を完全にシャットアウトしながら、練習室のドアを開いた。
「俺を待たせるなんていい度胸してんな」
「約束した覚えがないんですけど」
室内には案の上、我が物顔の木崎さんが椅子に座っていた。
防音の扉を閉めると、ようやく外界との煩わしい空気が遮断され、肩の力が抜ける。
そして、即興で簡単なメロディを奏でている木崎さんの横に立ち、ワザとらしく溜息を吐いてみせた。
「木崎さんのせいで、練習室の前が凄い事になってますよ」
少しは俺の立場も考えてほしい。
そんな思いを込めて言ったけれど、何故か木崎さんはその手をピタリと止め、嫌味なくらいに呆れた溜息を吐いてくれた。
「…全部が全部俺のせいじゃない。3分の1はお前の方だろ」
「は?」
…お前の方って…。
「俺? え? なんで?」
思わぬ言葉に目を見開いた。
木崎さんは、そんな俺をどこまでも呆れたような眼差しで見ている。
「お前なぁ、自分が上位だって自覚はあるのか?」
「勿論あります」
「嘘だな」
即答で否定された。
なんで俺の“自覚”を他人に否定されなければいけないんだ。…と通常なら思うところだが、これが木崎さんとなると話しは若干変わってくる。
木崎さんが否定するという事は、俺にまだ上位者としての自覚が足りない部分があるというのは間違いないのだろう。
認めたくはないけれど、木崎さんの人を見る目は確かで、それを信じる事が出来るだけのものをこの人は持っている。
黙り込んでいると、またメロディを奏でられた。今度は即興ではなく、聞き覚えのあるスケルツォ。
ユーモアを表現するこの曲を奏でたという事は…。
「…木崎さん、もしかして面白がってます?」
そう聞いた瞬間、クッと喉奥で笑われた。これは明らかに面白がられている。
問い詰めようと口を開いたタイミングで、まるでそれを計っていたかのように木崎さんが椅子から立ち上がった。勿論俺は口を閉じるしかなく…。
「取りあえず弾け。話はその後だ」
「………」
どうにも納得がいかない気がするけれど、木崎さんの言う事が正しい分だけに何も言い返せず、言われるがままにピアノに向かった。
「そこまで」
弾き始めて20分。
少し離れた場所に座っていた木崎さんの存在を忘れかけていた頃に、その言葉はかけられた。
ハッと我に返って振り向くと、妙な顔をした木崎さんが立ち上がって横まで来た。
なんだか変なものにでも遭遇してしまった…とでもいうような微妙な表情。
「…前から思ってはいたが、お前は本当に生真面目な奴だな」
「………」
揶揄るつもりなのかと思ったが、そう言っている顔は存外に真面目で、今の言葉が真剣に言ったものだとわかる。
だからこそ、大人しく次の言葉を待った。
「弾いてて自分の中に上手く収まらないんだろ? 縦にきっちりリズムを刻み過ぎなんだよ」
「でも、古典派はそうしないと…、」
「確かに古典派はきっちりとリズムを刻まないといけない。でも、縦のリズムを保ったままそれを横に流せなければメロディーラインは滑らかにならない。お前の弾き方は堅っ苦しくてカチカチしてんだよ。聴いてて疲れる」
「…横に流す…」
何かが頭の中でカチリとハマった。
下ろしていた手を鍵盤に乗せて、先程よりもゆっくりと、でも縦のリズムを狂わさない程度に横に流して弾いてみる。
弾き始めは良かったけれど、やはりまだ馴染んでいない為に、徐々にズレが生じてくるのはしょうがない。
これ以上弾いても崩れるだけだと判断がついた時点で、手を止めた。それでもコツは掴めた。
「そんな感じだな。後は慣れる事だ」
「はい。ありがとうございます」
木崎さんには言わなかったが、実を言うとこの曲には少々手を焼いていた。
何時間弾いても納得がいかず、どう弾けばいいのか迷子になりかけていた。
その突破口がようやく開けて嬉しくなってくる。
自然と顔が笑んでいたようで、「何笑ってんだよ」と額を小突かれた。
更には、いきなり頭をガシッと抱きしめられ、何がなんだかわからないうちに視界が全て濃紺色に染まる。
「ちょっと、木崎さん!」
離れようともがいた時に、髪に軽く押し当てられた何か。
それが木崎さんの唇だと気が付いたところでもう遅い。
「…ッ…何してるんですか!」
「ん? 親愛のキス」
離れた木崎さんが悪びれもなく言った瞬間、顔がカッと熱くなった。
中等部の頃から親しくしているとはいえ、高等部に入ってからの木崎さんのスキンシップは徐々に濃厚さを増している。
今回のこの行動なんて、まるで恋人にでもするかのようだ。恥ずかしくなってくる。
「もういいから離れて下さい!」
いまだに抱きしめてくる木崎さんの腕を思いっきり突き離したのに、そうされた本人は何が楽しいのか笑っているだけ。
後輩から邪険にされたのに不機嫌にならないなんて、プライドが高い生徒が多いこの学校では珍しいくらいに鷹揚な人だ。…と思っていたのは俺だけだったらしいと後になって知ったけれど…。
もしこの場に棗先輩がいたら、
『こんな態度をされても怒らないのは、相手が響ちゃんだからだよねー』
なんて言ったのかもしれないが、実際この場に棗先輩の存在はなく、木崎さんの事を鷹揚な人だと勘違いしてしまうくらい俺が特別扱いをされているなんて気付けるはずもない。
「残りあと30分。そうやってボーっとしてる時間はないぞ」
「………」
いったい誰のせいですか。
そう言いたい気持ちをグッと堪え、貴重な時間を無駄にする事は出来ないと大人しくピアノに向きなおった。
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