30 / 116

sonata24

何がなんだかわからない内に、その人はすぐ近くまで来たらしい。足音がピタリと止まる。 俺の上に乗っていた一人がゆっくり立ち上がると同時に、腕を持っていたもう一人も手を離して腰を上げた。 「あ…貴方には、関係のない事です」 「ひとが何してはるのー?ってなんべんも言うてんのに、なんで答えてくれへんの?」 ようやく解放された体。変な方向へ曲げられていたせいでいまだ痛む腕を抱えて、伏していた地から上半身を起こした。 そんな俺の目に映ったのは、物凄く意外な人物だった。 校内でも1・2を争う背の高さを誇っているにも関わらず、その体格は今にも風に吹き飛ばされそうな程に細い。 ストレートの黒髪は肩までのザンバラ状態で、前髪が鼻先まである為に顔がはっきりわからない。実は結構な男前だと噂になったけれど、その事実を確かめた者はいない。 歌う事以外に興味が持てない変人で、細長くフラフラしている所から、本名と掛け合わせて柳星人(やなぎせいじん)と呼ばれる有名人。 声楽科トップ、高等部三年の柳聖人(やなぎまさと)その人だった。 本当ならこの人が風紀委員長になるはずが、あまりに変人すぎるということで、気付けば御厨先輩がその任を押し付けられたという逸話の持ち主。 神出鬼没過ぎて、何がなんだかわからない人。 「あの…、柳先輩…、俺達、本当に何も…」 三年である柳を先輩と呼び俺の事を後輩と言っているという事は、この二人は木崎さんと同じ二年生らしい。 あまりの大物登場に、二人の腰が引き気味になる。 ジリジリと後退りながら柳先輩の横を取り抜けた瞬間、二人は脱兎の如く走り出した。 そして扉へと飛び付く。 だがその瞬間。彼らがまだ開ける前にも関わらず、扉が突然開いた。 驚いたのは俺も同じで、座りこみながら開いた扉を凝視すると、そこに姿を現したのはまたも意外な人物だった。 「………都築…」 珍しく、走ったかのように息を切らしている都築。 目の前の二人を見て、そして柳先輩の姿に一瞬目を瞠り、最後に俺を見た都築は、その眉をグッと寄せた。 また現れたピアノ科の上位者に、二年の二人は完全にフリーズした。 「お兄はん、その2人逃がしたらあきまへんえ」 その隙を見計らって、柳先輩がのんびりと言葉を放つ。 理由はわからなくとも、何かが起きたのだろうという事は予測が付いたのか、都築は疑問を口にする前に「…わかりました」と頷き返して後ろ手に扉を閉めた。 これでもう都築がどかない限り、二年の二人は屋上から出る事はできない。 これには相当焦ったようで、二人は次々に無実を訴える言葉を放つ。 「本当に僕達は何もしてません!」 「そいつが突然殴りかかってきたから、防衛の為に押さえつけただけなんです!」 よくもまぁ自分達の都合の良い嘘をつけるものだ。恥ずかしくないのか。 怒りよりも、その浅ましさに空虚感を覚える。 なんだか酷く虚しくて、何も言う気が起こらない。 けれど、茫然としたままの俺とは逆に、柳先輩はきっぱりと言い切った。 「人様の腕ぇ折ろうとしはった人間が何言うてますのん」 その柳先輩の言葉、そして腕を抱えて座り込む俺。 全てを理解したのか、都築の双眸が鋭く細められ、全身から怒気が放たれた。 それを真正面から浴びた二人は、怯えに「ヒッ」と息を飲む。 「…お前らは絶対に逃がさない」 低い声と共に両手で二人の腕を鷲掴む都築。 そのあまりに強い握力に、二人とももう逃げられないと察したのか、それまで必死だった顔から一気に表情を失くして項垂れた。 そんな様子をただただ見ていると、真横まで来ていた柳先輩が体を屈めて顔を覗き込んできた。 前髪が邪魔して目が見えない為に、まともに視線が合っているかどうかもわからない。 「あんたは保健医のとこ行った方がえぇなぁ。着いてこか?」 「…いえ…。一人で行けるから大丈夫です。ありがとう…ございました」 いまだ衝撃から抜け出せないまま、とりあえず怪我という怪我をしている訳ではない事はわかっている為、礼だけ言って付き添いは辞退する。 保健室まで付き添ってもらうなんて、そんな迷惑までかけられない。 大丈夫だという事を示す為にゆっくり立ち上がると、柳先輩も屈めていた上半身を起こした。 「ほんなら、僕とお兄はんがあの子らを連れてくさかい、もう安心するとえぇよ」 「…はい。本当にありがとうございます」 口端が僅かに吊り上がった事から、柳先輩が微笑んだ事がわかった。 会釈をしてから、一歩一歩ゆっくり歩き出す。 それを見た柳先輩も、どこか安心したような空気を漂わせながら歩き出し、並んで扉へ向かった。 途中、俺を追い越して先に都築の元へ辿り着いた柳先輩は、二人の内の一人の首根っこをその細長く大きな手で掴んだ。 結構容赦無い人らしい。苦しそうに顔を歪めた相手の事なんて見てもいない。 一度こっちを見た都築は、俺が頷き返したのを見て安心したのか、何も言わずに柳先輩と一緒に並んで校舎内へ戻って行った。 本当はこんな情けない話、誰にも言いたくはない。でも結局は隠してもいずれバレてしまうだろうと、保健医には全ての事を正直に話して腕に湿布とテーピングを施してもらった。 一気に事態が急変し過ぎて、まだどこか夢の中にいるような気分だったけれど、保健医の「5日もすれば痛みも治まるから大丈夫だよ」という言葉に、ようやく安心できたような気がする。 その日の夜になって、寮部屋を訪れてくれた都築から全てを教えてもらった。 どうやら都築は、俺が教室でメモを手にした様子を見ていたらしい。 そこから様子がおかしかったと気にしてくれたようで、17時頃に寮部屋に様子を見に行ってみたものの、俺は不在。おまけに、調べてみれば練習室の方にも行っていない。 何かがおかしいと周囲の人間に聞いて回り、そこで、俺が屋上へ向かう姿を見たと誰かが教えてくれたらしく、嫌な予感を感じて探してくれたようだ。 あんなに良いタイミングで屋上に現れた背景にそんな事情があったなんて、驚いて言葉も出ない。 そしてさっきまで、柳先輩・都築・学年主任・教頭・学院長と緊急会議を開いていたという。 「あの二人は無期停学の後に、たぶん退学になるはずだ。教頭が柳先輩に心底怯えて言いなりになってたのが衝撃的だったけど。でもまぁ、学院長も教頭も学年主任も柳先輩の言った事に納得したからこそ、即決でそういう決断を下したんだろ」 柳先輩という人物に相当の興味を抱いているのか、どことなく面白そうに話していた都築だったけれど、俺の腕が大丈夫だと知った途端チラリと安堵の表情を浮かべたのを見てしまった。 感情をあまり表に出さない為に無愛想で冷たく見えるけれど、その内面は本当に優しいと思う。 でもまさか、あの二人が退学になるとまでは思っていなくて、そこには驚いた。 この学校は音楽科の生徒には甘い。せめて停学くらいだろうと思っていたのに。 そう言ったら、 「人の腕を折ろうとして痛めつけた時点で暴行と見做されてもおかしくはない。それを内々の退学だけで済ませたんだから甘すぎるくらいだろ」 と返された。 ゆっくり休めと言ってすぐに出て行こうとした都築だったが、廊下へ出た瞬間、 「そういえば、なんだか柳先輩がお前の事気に入ったって言ってたな」 そんな事をポロリと口走った為に、思考回路が真っ白になる。 「…………なんで…」 驚きの衝撃から目が覚めてその一言を俺が口に出した時には、もう既にドアは閉じられていた。

ともだちにシェアしよう!