32 / 116
sonata26
朝のSHR。
あまりにもいつもと変わらぬ教室の雰囲気に、まるで昨日の事が夢だったんじゃないのかとさえ思ってしまう。
でも、いまだに鈍く残る腕の痛みが、昨日の出来事が現実のものだったという事を告げていた。
右腕にはテーピングが巻かれているが、制服がそれを隠してくれているおかげで誰にも気付かれていない。
まだ長袖シャツを着ていてもおかしくはない時期で良かった。
教室に来た時に一瞬だけ目があった都築は、俺に変わりがない事を確認したようで、ほんの少しだけ目元を緩めていた。それが嬉しい。
なんだか最近、都築には助けてもらってばかりだ。
つかず離れずのスタンスを持つ都築とのこの距離が、ひどく心地良い。
SHRが終わり、担任が教室を出て行ってから机に頬杖を着いた。
昨日のような考えを持っている人間は、他にもたくさんいるのだろう。
行動を起こすか起こさないかの違いだけで、あの二人は氷山の一角に過ぎない。
木崎さんには突き離され、他の生徒達には妬みを向けられる。
自分はいったい何をしにこの学院に来たのか…。
好きな音楽を学びたいが為にここへ来たのに、これじゃまるで生徒同士のいがみ合いが主だった生活になっている気がする。
高等部に上がって、それが顕著に表れてきた。
海外留学に繋がる本格的なコンクールの存在も、皆を焦らせ、他者を蹴落としたくなる衝動に駆らせている原因の一つだろう。
…もう全ての事から解放されたい。
周りにわからないように、深い深い溜息を吐きだした。
「あ、ねぇ、ほら」
「あぁ、見てろ。絶対に無視されるから」
移動教室へ向かう廊下の途中。
ここ最近の風物詩のように聞きなれたヒソヒソ声が耳に入ってきた。
その声につられて、手元の楽譜を見ていた視線を何気なく上げると、
「………」
「………」
向かい側から木崎さんが歩いてくる姿が見えた。
そして、顔を上げた俺と木崎さんの視線が絡み合う。
最近では、ここで気付かない振りをして視線を外すのは木崎さんの方だった。
でも、今日は逆。
何事もなかったように視線を外したのは、俺の方が先。
…もういい。何も期待したくない。木崎さんと親しくなる前の、中等部に上がったばかりの頃に戻るだけだ。ただ、平穏な生活に戻るだけ。
そんな俺達の姿を見た周囲からは、僅かにざわめきがあがった。
「…嘘…。なんで会長が湊君の方を見てるわけ?」
「っていうか、今日はアイツの方が無視してなかった?」
俺の方を見てる?
その言葉に、ついまた視線を向けると…。
「……ッ…」
すぐ近くまで来ていた木崎さんが、俺の事を見ていた。それもハッキリと。
再度視線が絡み合った瞬間、木崎さんの唇がゆっくりと開く。
途端に足が動き、その場から逃げるように走りだした。
なんで走り出したのかなんて、自分でもわからない。
ただ…、
…怖かった…。
木崎さんの口から出る言葉がなんであれ、怖かったんだ。
そのまま走りに走って辿り着いた場所。音楽棟の裏。
ここは校舎の陰になっている為に陽が当たらず、どことなく空気がジメジメしていて薄暗い。
だから、ほとんど人が訪れる事はない。
外から学院内が見えないように…と、外界との壁の役割を果たしている木々が目の前に広がる。
耳を澄ませても、後を追ってくる足音は聞こえなかった。
その代わりに聞こえたのは、授業開始のチャイムの音。
手元にある音楽理論の教科書と楽譜は、今から始まる授業で使う物。
「…サボり、か」
足元のコンクリート部分に腰を下ろし、レンガ造りの校舎の壁に寄りかかった。
6月の半ばも過ぎた今、梅雨の影響か見上げた空はぼんやりとした鉛色をしている。
そのまま後頭部をコツっと壁に当てた。
昨日、腕を折られるという時になって、もしこれでピアノがまともに弾けなくなったらどうしよう…と物凄く焦った。
子供の頃からピアノを弾く事が当たり前で、どんな時でもピアノがあればそれだけで嬉しかった。
探していた音を自らの指で引き出せた時は、これ程の幸せはないと思った。
…でも、今はそのピアノすら苦痛に感じる。
ピアノを弾けば周囲の妬みを買い、上に行けば行くほど、周囲に集まるのは有象無象の信じられない人間ばかり。
「…なんの為にピアノを弾いてるんだろう…」
静かに瞼を閉じると、自分でも気付かないうちに滲んでいたのか…、目尻から涙が零れ落ちた。
ともだちにシェアしよう!