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sonata27

全ての授業が終わり、放課後になって向かったのは中庭。 空の雲はますます厚くなり、今にも雨が降り出しそう。 空気は嫌な湿り気を帯びて、風が生暖かい。 まるで自分の胸の内を表しているような空模様の中、いつものように噴水が見える位置のベンチに座った。 今日、藤堂さんが来るとは限らない。 それならそれでも構わない。今日会えないなら、会えるまでここに通うだけの事。 背もたれに寄りかかって、斜め前の噴水を眺めた。 太陽の光があれば煌めいて見える噴水も、こう曇天だと普段の爽やかさは見る影もなくなる。流れる水にも元気がないように見えてしまうから不思議だ。 そんな事を思ってボーッとしていると、誰かの足音が近付いてきた。 規則正しく、そして体格の割には静かな足音。ここ最近で聞き慣れたもの。 会えるか会えないかは五分五分だと思っていただけに、少しの緊張と安堵が同時に込み上げてくる。 「来てたのか」 低めの落ち着いた声に、どことなく嬉しそうな色が含まれているのは気のせいか。 横を向くと、少しだけ表情を緩めた藤堂さんが立っていた。 軽く頭を下げて挨拶をし、隣に座る相手をじっと見つめる。 これから告げる内容を思えば、どうしても普段通りの対応をする事が出来ず、自然と表情が堅くなってしまう。 それを感じ取ったのか、藤堂さんの双眸にいつにも増して真剣な色が浮かんだ。 「どうした?」 毅然とした中にも優しさを感じる声に、なんだか泣きそうになる。でも、それをグッと堪えてしっかりと藤堂さんの目を見据えた。 「俺、もうここには来ません」 「………」 ハッキリと言い切ったその言葉をどう捉えたのか、藤堂さんの力強い眼差しが俺の本心を見透かすように無言で切りこんできた。 何故突然そんな事を言い出しのか、考えているのだろう。 ここで目を逸らそうものなら、鋭い藤堂さんの事だ、俺に何かあったのかと感づいてしまう。 昨日自分の身に起きた事は絶対に知られたくないし、今はもう誰とも関わりたくないなんて本心を言ってしまったら、心配するに決まっている。 この優しい人に迷惑はかけたくない、そして、気をつかわせたくない。 だから、単なる俺の気まぐれでもう会うのが嫌になった、と、そう言うのが一番なんだ。 「…もう、藤堂さんとここで会う事はしません」 「何があった?」 「………」 やっぱりそうきた。 何かあったのか?ではなく、何があった? 既にもう俺の身を案じている言葉。 …ダメだ、この人には絶対に知られたくない。 奥歯をグッと噛みしめた後、目を逸らさないまま口を開いた。 「特に何かあったわけじゃありません。ただ、こうやって周りの人に(おおやけ)に言えない感じで会っているのが後ろめたくて…。ハッキリ言えば、それがちょっと疲れてきたんです」 上手く言えただろうか。これが真実だと思ってもらえただろうか。 何も言わずに見つめてくる藤堂さんの瞳に負けて、辛いのだと…そう本心を告げそうになるのを必死に堪える。 「…それに…、飛奈副会長にも悪いですから」 軽い口調で冗談めかすように笑いながら言うと、そこでようやく藤堂さんが動いた。 「瑞樹に悪い? どういう事だ」 物凄く意外な事を言われたかのように、少しだけ目を瞠っている。 緩くなった空気に内心で安堵しながら笑みを向けた。 「お二人は付き合ってるって、そう聞きました。だから、俺と会ってると飛奈副会長に悪いなって」 「あぁ、それか…」 途端に藤堂さんは、どこか困ったような笑いを浮かべた。 それは、付き合っている事がバレて困った…というような笑いではない。 なんだ…?と首を傾げた俺に、逡巡した様子で考え込んだ藤堂さんは、少ししてからちょっと予想外の話を聞かせてくれた。 2人は、家が隣同士のいわゆる『幼馴染』で、物心ついた時から一緒にいた。 小学校も一緒。そして中学校も一緒にこの奏華学院へ来た。 その頃から、優しく穏やかな飛奈は同性である男に目を付けられるようになり、藤堂はその度に守っていたという。 その中に一人だけ、どうしても飛奈の事を諦めない男がいて、『誰とも付き合っていないなら俺と付き合ってくれたっていいだろ!!』と本当にしつこく付きまといはじめた。 このままだと身の危険に及びそうだと感じた藤堂が考え付いたのが、『自分達二人が付き合いだしたという噂を流す』という事だった。 その作戦は見事成功し、周囲から尊敬と憧れの対象となっていた藤堂が相手では叶わないと、男は飛奈に付きまとうのをやめたらしい。 「実際は、俺と瑞樹の間にそういう付き合いはない。今はアイツも自分の事は自分で対処できている。それに、未だにそんな噂を信じられていると知ったらアイツ自身も困るだろう」 これが真実だ。と告げた藤堂さんは、まるで小さな子供にするようにポンと一度だけ俺の頭を優しく叩いた。 そんな事をされたら甘えたくなってしまう程、今の俺は心弱い。 揺らぎそうになる気持ちを引き剥がすように、座っていたベンチから立ち上がった。 このままここにいたらダメだ。居心地の良い空間から少しでも離れたい。 「…飛奈副会長との事はわかりました。でも、やっぱり俺はピアノに集中したいんです。だから、藤堂さんとここで会うのはやめます。我が儘言ってすみません」 これで最後。 藤堂さんに向かって、深々と頭を下げた。 そのまま数秒、そして更に十数秒たち…、藤堂さんがベンチから立ち上がったのが視界の端に映った。 そして下げたままの俺の頭に暖かな手が触れる。今度は、さっきよりも少しだけ強くグシャリと撫でられた。 「…わかった…。もうここに来るのはやめよう。でも、何かあればすぐに俺の所に来い。悩みでも愚痴でも、聞くくらいの事は出来る」 最後に低く暖かみのある声が、「頭を下げる必要などない」そう言って俺に頭を上げるように促したけれど、藤堂さんがこの場にいる間は頭を上げるつもりがない俺の気持ちが伝わったのか、少ししてから諦めたように嘆息して中庭から歩き去って行った。 足音が聞こえなくなり、下げていた頭を上げる。 誰もいなくなった中庭は、妙にシンとしていた。 藤堂さんの声色に、どこか寂し気なものが含まれていたように感じる。 優しく気遣ってくれる相手に、俺はいったい何をしているんだろう…。だんだん、自分が何をどうしたいのかわからなくなってきた。 溜息を吐いて立ち尽くしていると、ポツリと頬に触れた何か。 なぞった指先には、水滴が付いていた。 気体の姿を保てない程に水分が多くなってきたのか、とうとう雲から雨が降り出してきたようだ。 ポツリポツリと水滴は増えていく。 それは次第に絹糸のような連続的な物に変わり、世界を白く煙らせる。 雨の存在が空気の振動を阻み、周囲から雨音以外の雑音が消えていく中、俺は馬鹿みたいにただ立ち尽くしていた。

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