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sonata28
§・・§・・§・・§
「クシュッ」
今朝からクシャミが止まらない。
昨日、雨の中でボーっとしていたのが悪かったんだろう。気付けば、結局あれから1時間も中庭で立ち尽くしていた。
冬じゃないからと油断したのがまずかった。風邪をひいてしまったかもしれない。
「風邪か?」
1時間目が終わった休み時間。かけられた声に顔を上げると、都築が横に立っていた。
無表情の中にも、どこか気遣わしげな色が見え隠れしている。
「風邪って程じゃない。ちょっとムズムズするだけ」
「…そうか、……まぁ気をつけろ」
何か言いたげだった都築が席に戻っていくのを見送り、次の授業に必要な教科書を準備し始める。
妙に体がダルイ。
吐きだした息が熱いように思うけど、考え過ぎ、だよな。
2時間目の授業が終わったら、保健室に行って薬でももらってこよう。
教室に入ってきた英語教師の姿を見ながらそんな事を考えていたけれど、結局それは実行に移せなかった。
「先生―。湊君が調子悪そうなんですけど」
隣の席から声が聞こえる。
いや、俺は、ただ眠いだけ…だから。
机に突っ伏しながらそう言ったつもりだけど、それが実際に言葉となって口から出たのかはわからない。
「湊? 大丈夫か?」
英語教師の声が聞える。
大丈夫です。
そう言えたのかどうか…。
急速に意識が底へ沈んでいった。
…体が、重い…、熱い…。
消せない火種が身体の内で燻っている。それを消そうと必死になる自分。
そんな夢の途中で目が覚めた。
瞼を開くことが大変ってどういう事。
異常にダルくて重い身体は、寝返りをうつ事さえ許さない。
「あ…つい…」
覆いかぶさっている厚みのある布を横に退けると、それが白い掛け布団だとわかった。
…ベッド?
どうやらいつの間にか、保健室のベッドで寝ていたらしい。
完璧に風邪をひいたな…。
ようやく自分の状況が理解できた。自業自得なだけに、情けなさしか感じない。
その時、
「お、目が覚めたか?」
ベッド周りを覆う仕切りのカーテンが開けられ、保健医である長野先生が顔を覗かせた。
30代前半だろうと思われる外見は、俺よりも少し背が高く、体格には厚みがある。
黒髪短髪と相まって、どことなくクマっぽい印象を持つ人物だ。
さすが保健医とでもいおうか、持っている空気がとても温和で、生徒達の間でも慕われている。
「…俺、なんでここに」
喋るだけでも重労働。
掠れている自分の声に驚きながらも長野先生を見上げると、呆れたように溜息を吐かれてしまった。
「お前なぁ、そこまで具合が悪いなら授業に出るなよ。途中でぶっ倒れてりゃ世話ないぜ」
「……すみません」
だってまさか、ここまで悪くなってるなんて思わなかったんだ。
そう言いたくても気力がない。もうなんでもいいからこのダルさをどうにかしてほしい。
せっかく目覚めたのに、また睡魔が襲ってくる。
自分の意志に従わず勝手に落ちてくる瞼。暗くなった視界にうつらうつらと眠りの淵を彷徨い始めた時、
「後で都築に礼を言っておけよ」
優しい声と共に、額に大きな掌が当てられた。
…都築…?
もしかして、俺をここまで運んでくれたのは…。
思い当たった考えを長野先生に確認しようとしたけれど、思考はそこで途切れてしまった。
次に目が覚めると、何故か寮の自室にいた。
馴染みのあるベッド。馴染みのある部屋の景色。
頭上にあるブラインドの隙間からは、外の明かりが薄らと差し込んできていた。
ヘッドボードに置いてあるデジタル時計は、6時を示している。
どうやら夜が明けたらしい。
いつの間に保健室からここまで移動したんだろう…。
上半身を起こすと、昨日とは比べ物にならないくらいに体が軽くなっている事に気が付いた。
肘辺りまで捲り上がった袖を戻そうと何気なく腕を見たら、四角いシールが貼ってある。
これは、点滴か注射を打った時に貼られるアレだ。止血シール。
そういえば、長野先生は医師免許を持っていると聞いた事がある。だからうちの学校の保健室は、保健室というより病院出張所のようなものだと。
少し離れた所にある机の上には、見たことのない小さな紙袋のような物も置いてある。
なんだろう…。
それが何かを確認しようとして床に足を下ろした時、ようやく頭が目覚めてきたのか、ある一つの事に気がついてギョッとした。
自分の全身を見下ろす。
「………なんで着替えが…」
…そう、今気が付いた。
俺は制服を着たまま保健室で寝ていたはず。
それが何故か今は、白のパーカーとベージュのカーゴパンツを履いている。いわゆる部屋着だ。
誰かが着替えさせてくれたとしか思えない。記憶がないまま自分で着替えられるほど俺は器用じゃないはず。
…まさか、長野先生が?
途端にクラリと眩暈がした。
この眩暈は、熱が下がった時に感じるあの倦怠感なのか、それとも長野先生に着替えさせてもらったかもしれないという羞恥心からか…。
現実から目を逸らしたい思いで、とりあえず机の上の紙袋に手を伸ばした。
開けてみると、中には錠剤の薬。そして半分に折りたたまれた紙。
その紙を取り出して目を通すと、そこには長野先生の雑な字で、
『薬は毎食後1錠ずつ飲んでおけ。3日分ある。昨日お前が寝ている間に点滴を打っておいたから、3日も飲めば完全に回復するだろ。それから、柳に礼を言っておけよ。教室から保健室に運んでくれたのは都築だが、保健室から寮部屋まで運んだのは柳だから。放課後になって偶然来た柳が、お前が寝ていると知って自ら志願して運んでいった。まぁそんな感じだ』
そう書かれてあった。
全てを読み終わった瞬間、なんだか倒れそうになった。
…なんで柳先輩が…。って事は、着替えさせてくれたのは…。
先日屋上で助けてくれた声楽科のトップ。ヒョロリと細長かった人物を思い出して顔が熱くなった。
保健医だと思えばこそ、まだ羞恥を抑えられたのに。…だめだ…、恥ずかしくて死にたい…。
クラクラする頭を抱えて、それでもなんとか足を動かして向かったのはバスルーム。
たぶんもう熱は下がっているし、今日は授業に出たい。
風邪をひいたのは間違いないと思うけれど、熱はそこからくるものじゃなくて精神的なものから発生したのだと、なんとなくわかっている。
じゃなければ、点滴をされたとはいえ、一晩寝ただけでここまで回復するはずがない。
深い溜息を吐きつつ、シャワーを浴びて身支度を整え、軽食を胃に入れてから薬を飲んだ。
その頃には、時計の針はちょうど8時を指し示していた。
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