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sonata29
都築はもう来てるだろうか。
どちらかと言えば、平均的な登校時間は俺の方が早い。
開きっぱなしになっている教室のドアをくぐって室内を見渡すと、案の定まだその姿はなかった。
「まだ来てないか…」
壁に設置されている時計を確認してから自分の席へ向かおうとした、その時。
「誰が?」
背後から聞こえた声。
俺がドアから入ってすぐの場所で立ち止まっていたせいで邪魔になり、教室に入れず立ち止まってしまった誰か。
…というか、この声は都築だ。
「…都築」
振り返ると、相変わらずの眠そうな眼つきをした都築が立っていた。
不機嫌なのか眠いのかと問えば、これが地顔だと答えるだろう。
「もう調子はいいのか?」
「あぁ、昨日はありがとう。迷惑かけて悪かった」
「調子が良くなったならいい。俺は大した事はしてない」
素のまま、本当になんて事はないという感じで肩を竦めた都築は、そのまま自分の席へ行ってしまった。
…男前過ぎる。
自然と緩んでしまう口元を隠す事もしないまま、俺も自分の席に向かった。
午前最後の授業が終了した事を告げるチャイムが、校舎内に鳴り響く。
それが、今から戦いに出陣する合図に聞こえたのだから、もう終わってる。主にメンタル面で…。
これから向かう戦場、…ではなく、会いに行こうとしている人物を考えると、それなりの心構えが必要だ。
3-C。その教室にいるはずの柳聖人先輩。
お礼を言いに行くのに、ここまで複雑な気分になるのもおかしな話だと思う。
そもそも、神出鬼没な事で有名なあの人が、大人しく教室にいるとも限らない。そう思いながら階段をのぼっていく。
滅多に行くことのない三年の教室が並ぶ4階は、一年の教室が並ぶ2階と比べて明らかに雰囲気が落ちついている。
通り過ぎる先輩達が、不思議そうな顔でこっちを見ていくのが居たたまれない。
「あれ…、一年の湊じゃん」
「え、あの子がこの階に来るなんて珍しいな」
ヒソヒソとした会話が耳に入ってくる。
出来れば気付かないふりをして放っておいてほしい。
眉間に皺が寄りそうになるのを、どうにか堪えながら辿り着いた教室。
3-C。
開いていたドアから見えた室内は、昼休み特有の適度に緩んだ空気に満たされていた。
「お…、湊響也じゃん。どしたの?」
「え?」
突然、ドア近くの席にいた人が、俺に気付いて話しかけてきた。
緩いウエーブのかかった茶色い髪と、好奇心いっぱいの顔。
全く知らない人物だが、席に座ってると言う事は、このクラス…声楽科の先輩なんだろう。
「あの、柳先輩いますか?」
「へ? 柳に用なの? …運が良いね~、今日は珍しくいるから」
一瞬目を見張ったその人は、次に教室の後ろの方を振り返って「柳殿~、来てたもれ~」と変な呼び出しの言葉を放った。
…来てたもれ…って…。
そういえば、声楽科には一風変わった人が多いと聞いた事がある。その筆頭が柳先輩だと。
たぶんこの人も、その“一風変わった人”の部類に入るんだろう。
「梶 。軽々しく僕の名前を口にしないでくれるかな」
「いや、だって客が来てる」
「客?」
…あれ…? 柳先輩って標準語だったか?
確か屋上で話した時は関西系、…というより京風な言葉だったはず。
もしかしてこの梶って先輩、同じ名字の別人を呼んだんじゃ…。確かに俺も柳先輩としか言ってないけど。
梶という名前らしい先輩に呼びだされた“柳殿”の不機嫌な声が近づいてくる。
これで人違いです、なんて言ったらマズイのでは…。
少し焦りながら梶先輩を呼びとめようと手を伸ばした時。
「あれ、響ちゃん? なんや、僕の客ってキミやったんか」
梶先輩の横まで来たのは、なんのことはない、柳先輩その人だった。
相変わらず長い前髪に隠れて口元しか見えない。
でもいま響ちゃんって…、いや、それよりもさっきの標準語は…。
何がなんだかわからなくて茫然と柳先輩を見つめていると、何故か梶先輩までが驚いたような声を上げた。
「えっ…、うわ…なに。もしかして湊って柳殿に気に入られてんの!?」
「…梶…。少ぅしその口閉じてもらえへん? 煩くてかなわんのやけど」
「…すみません…」
何この恐怖政治。柳先輩ってこういう人だったんだ。
「調子良うなったみたいやね?」
2人を交互に見ていた俺にかけられた言葉に、ハッと我に返った。
そうだ、驚いている場合じゃない。
「はい。柳先輩が寮まで運んでくれたと聞きました。ご迷惑おかけしてすみません、ありがとうございました」
「えぇんよ、大した事はしてへんさかい」
「そんなことないです。本当に助かりました」
頭を下げると、柳先輩の口元が緩く笑んだのがわかった。
なんでこの人が変人と言われるんだろう。ちょっとだけ恐怖政治を垣間見た気はするけれど、でも物凄く良い人っぽいのに…。
「……柳殿が人助け…」
横から梶先輩の茫然とした声が聞こえる。
何故ここまで驚いているのかわからない。
「…あの、梶先輩?」
さすがに気になって声をかけたけれど、梶先輩が反応する前に柳先輩がそれを遮った。
「響ちゃん」
「あ、はい」
「時間見てみぃ。早う食堂行かんと、ご飯食べる時間足りんようになるわ。まだ食べてへんのやろ?」
「そう…ですね」
「昨日の事はホンマに気にせんでえぇから、はよご飯食べに行き」
「わかりました」
ゆったりと穏やかな口調の割に妙な迫力のある柳先輩に押し出されるように、もう一度頭を下げてから3-Cを後にした。
歩き出す時、視界の端に移った梶先輩がムンクの叫びのような仕草をしていたのが、妙に目に焼きついた。
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