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canon1

§・・§・・§・・§ 7月。 まだ梅雨が明けていないとはいえ、気温的には間違いなく夏だ。普通に暑い。 二週間くらい前までは長袖シャツを着ていたけれど、今ではもう半袖シャツに変わっている。 レッスン室や教室はエアコンが入っているからいいものの、一歩廊下に出ると蒸し暑さに見舞われて汗が滲み出てくる。 「五味(ごみ)君、キミはもう少しシューマンの事を勉強した方がいい」 同じグループ内で本日のレッスン最後の順番だった五味は、ピアノ教師である佐藤先生にそう言われて首を傾げた。 自分の弾き方の何が悪かったのかわからない様子。 確かに、譜読みは完璧だった。音のミスも無い。 でも、 「どこが問題なんですか? 僕としてはリズムに狂いもなく流れるように弾けたと思うんですけど」 “リズムに狂いもなく流れるように弾けた” そこが問題なんだ。 五味の答えに、佐藤先生は小さく溜息を吐いた。 俺の隣の椅子に座っている青木も、五味と同じように首を傾げている。 ただ一人だけ、青木の向こう側に座っている筒井だけは、呆れたような眼差しで五味を見ていた。 きっと彼だけは、言葉の意味がわかったのだろう。 実際に、五味と青木はSクラスでもギリギリの位置にいる。 筒井は真ん中、もしくはそれよりも上の位置だ。 こういうところでも、個人のレベルの差が浮かび上がる。 黙ったまま何も言わない佐藤先生を見てオロオロし始めた五味は、困ったようにこっちを振り向いた。 助けを求めるその視線に、青木はもちろん首を横に振る。 五味は木崎さんファンの為、俺には絶対に意見を求めない。 残る頼りは筒井だけだ。 その状態がわかったのか、筒井は疲れたように溜息を吐いた。 「もう少し勉強しろよお前……。いいか? シューマンの曲をリズムを狂わせずに最初から最後までキッチリ弾くなんてありえないだろ。プロが弾いてるのを聴いた事がないのか?」 「……え?」 筒井の言葉に、五味の目が見開かれた。 驚いている五味を見て脱力したのは筒井だけじゃない、俺もだ。 「あ、そうか」と、間違いに気付いてくれるかと思っていたけど、これはもうそういうレベルじゃないらしい。 揶揄混じりに、“シューマンの持っているメトロノームは壊れていたのだろう”とまで言われているのを知らないのだろうか。 それほど彼の曲は揺れる。 筒井がチラリと視線を向けてきた事に気付いて、肩を竦める。 『お話にならない』 互いの気持ちが一致した瞬間だった。 レッスン室内が微妙な空気に満たされると、そこでようやく佐藤先生が動き出した。 と言ってもレッスンの為に動き出したわけじゃない。 「そろそろ授業の終了する時間ですね。それでは皆さん、次のレッスンでお会いしましょう」 茫然としている五味を残して、佐藤先生はさっさとレッスン室を出て行ってしまった。 同時に終業のチャイムが鳴り響く。 見捨てられたような形となった五味。 この後の荒れ具合を想像出来るだけに、巻き込まれないよう早々にレッスン室を出た。 一歩廊下に出ると、エアコンの無い蒸し暑さが襲来する。 それぞれのレッスン室から出てきた生徒達で密度が高くなっているせいで、暑さも一際増しているようだ。 今のレッスンで得た事を、互いに声を張り上げて話し合っているグループ。 駄目出しをされたのか落ち込んでいる生徒。 そんな中を擦り抜けるように歩いていると、ちょうど階段を下りてきたところだったらしい、数メートル先にある階段の下に棗先輩の姿を発見した。 木崎さんとおかしな事になってから、自然と棗先輩とも話す事はなくなっていた。 自分が視界をシャットアウトしていたからかもしれないけど、こうやって姿を見る事自体が久々な気がする。 あまりに凝視し過ぎたせいか、視線に気がついた様子の棗先輩が不意にこっちを見た。そして瞠目し、形の良い唇が「あ」の形に開く。 …まずい、このままだと絶対に話しかけられる。 咄嗟に視線を外して歩き出したのはいいけれど、結局、棗先輩がいる階段を上らなければいけない事に変わりはない。 近づきたくはないのに、近づかなければならないこの状況。 自分自身で足を動かしているにも関わらず、心の中ではこれ以上進みたくないと思う。この相反する行動が息苦しさをもたらす。 棗先輩の視線が突き刺さるのを感じる。 あと5メートル、3メートル、…そして…。 通り過ぎた。 まるで全力疾走した後のように鼓動が乱れる。 何も言われなかった事に安堵しながらも、どこか空虚さを感じているのも事実で…。 溜息を吐いて階段に足をかけた。 「…響ちゃん」 「……ッ…」

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