39 / 116
canon2
おさまりかけた心臓の鼓動が、それまで以上に大きく跳ね上がった。
廊下や階段には他に人がいるにも関わらず、耳には自分の心臓の音しか聞こえてこない。
振り向く事も出来ず、無視して歩き出す事もできず、ましてや返事をするなんてもってのほか。
先程感じた空虚感がまるで嘘のように、今度は逃げ出したくなる
階段のいちばん下の段に片足をかけたまま固まった。
そんな俺の視界に映ったのは、どこか困ったように微笑む棗先輩の顔。いつの間にか真横まで来ていたらしい。
「響ちゃん、ちょっと時間もらっていいかな」
こんな躊躇いがちな棗先輩は初めて見る。
いつでも飄々と自分のペースに周りを巻き込んで、のほほんとしている姿しか知らない。
だから、拒否する事ができなかった。
「…わかりました」
階段から足を下ろして向き直ると、並ぶレッスン室の内の一つに招かれた。
ここも次の授業で使用するだろうから、話す時間はあと10分しかない。
扉を締め切ったレッスン室の中での気まずい沈黙。
棗先輩は、それまでの躊躇いなどなかったように真剣な眼差しを向けてきた。
「質問は一つだけ。だから、誤魔化さずに答えてほしい」
「はい」
「今年のコンテスト、参加しないって聞いたけど、それは本当?」
「………」
一瞬、息ができなくなった。
何故それを棗先輩が知っている?
奏華学院高等部では、毎年12月に、ピアノ部門・ヴァイオリン部門・声楽部門に分かれてコンテストが行われる。
その各部門での優勝者は、全費用を学院負担でドイツ留学出来るとあって、生徒達はこぞってコンテストに参加したがる。
だが、誰もが出られるわけじゃない。
その前に行われるテストによって、粗方の生徒が振り落とされる事となる。
国内でもかなり有力視されているコンテストの為、事前テストに合格すれば外部生でも出場する事が出来る。とにかく大きなコンテスト。
そして、奏華学院音楽科の上位者は、テスト無しで出場できる。
つい先日、担任からその事を言われ、「保留にしてもらえますか」と答えたばかりだ。
どこから話が漏れたんだろう。
「…本当ですよ。でも、出ないと決めたわけじゃありません。保留にしてるだけです」
「どうして保留にするの? 出ればいいでしょ。響ちゃんの実力なら躊躇う必要なんてどこにもない」
「さっき棗先輩は、質問は1つって言いましたよね。何故保留にするか…って、その質問は2つ目です。俺に答える義務はありません」
冷たすぎるほど冷たい言葉だと自覚はある。でも、その理由を絶対に言いたくなかった。
自分から質問は1つだけと言っただけに、さすがの棗先輩も唇を噛みしめて黙り込むしかない。
もう用件は済んだはずだ。これ以上深い話はしたくない。
黙り込んでしまった棗先輩に会釈をして、歩き出した。
でも、
「………皇志のせい?」
不意に腕を掴まれて言われた言葉。
棗先輩のものとは思えない低い声に、足が止まった。
「…離して下さい。答える義務はありません」
このまま棗先輩といたら、聞きたくない言葉まで聞くはめになるだろう。
掴んでくる手を力任せに解こうと腕を引く。
でも、ヴァイオリン科トップである棗先輩の指の力は半端じゃなく、どうやっても逃れる事ができない。
「響ちゃん! 頼むから皇志と話をしてやって!」
「…っ…今更何を言ってるんですか! 木崎さんと話す事なんて俺にはありません!」
「あるんだよ! 話さなきゃいけない事が! 響ちゃんの気持ちもわかるけど、このまますれ違って終わるなんて納得できない!」
「そう思ってるのは棗先輩だけです!」
「違う!!」
叫ぶような否定と共に、掴まれた腕を思いっきり引っ張られた。
よろめいた体勢を整えようと咄嗟に足を一歩踏み出した、その時。
「後輩に無理強いをするのは、どうだろうな?」
この場にはそぐわない、抑揚のない淡々とした声がかけられた。
いつの間にレッスン室に入ってきていたのか、腕を組んでドアに寄り掛かる御厨先輩の姿に、棗先輩の動きがピタリと止まる。
「…なんでここにいるんだよ」
「それは私のセリフだ。もうあと1分で授業は始まるが?」
どうやら、次の授業でこのレッスン室を使用するのは御厨先輩のグループだったらしい。
なんという偶然。
ホッとした俺とは逆に、棗先輩は目を吊り上げて御厨先輩を睨んでいた。
「湊の腕を離したらどうだ」
「そんな事を指示される覚えはないと思うけど」
「風紀委員長として、授業に遅刻するだろう行為を見逃す事はできないと言っているんだ」
どこまでも正統的な御厨先輩の言い分に、さすがの棗先輩もこれ以上は反論できず、俺の腕から手を離した。
感情の見えない怜悧な瞳でそれらを眺めていた御厨先輩は、組んでいた腕を解いて寄り掛かっていたドアから背を起こし、俺達の、…というより俺の方に歩み寄ってきた。
「もう次の授業が始まる。早く行け」
「…有難う、ございます」
軽く背を押してくる手が伝えてきたもの。それは、御厨先輩の俺に対する気遣いだった。
一見、風紀委員長としての義務感から起こした行動に思えるが、早くここから出ろとばかりに背を押してきた御厨先輩の手の優しさに、義務的ではない何かを感じた。
…逃がしてくれたんだ。
御厨先輩に礼を言いながら会釈をしてレッスン室を出る際、視界の端に映った棗先輩がどこか苦し気な眼差しでこっちを見ていた事に気がついたけれど、それを振り払うように廊下へ飛び出した。
ともだちにシェアしよう!