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canon3
§・・§・・§・・§
シトシトと静かで煙るような霧雨。
鉄筋造りの一般棟校舎よりはまだマシかもしれないが、音楽棟のレンガ造り校舎もかなりの湿気を含んでいた。
外側から見れば、濡れて色の濃くなっている赤レンガと雨の雫に濡れた緑の蔦が、年代味を帯びて美しい事この上ない。
でもそれはあくまでも外観だけ。
中で生活している生徒達は、ただただその湿気に辟易していた。
「…この湿気には参るよね…。僕もヴァイオリンになりたい…」
放課後。
木崎と並んで廊下を歩いていた棗は、常に最高の状態で保存されている自分の愛器を思い浮かべ、心の底から羨ましいと声を上げた。
隣を歩く木崎は、そんな棗を情けないとばかりに見るだけ。
この湿気の中、いつもと変わらず涼し気にしている木崎の様子にすら羨む眼差しを向ける始末。
末期だ。
「このままだと僕の体にカビが生える」
という言葉もあながち冗談ではなさそう。たぶん本気で言っている。
「彼方。梅雨よりも何よりも、お前のその態度がいちばん鬱陶しい」
「ひどっ!」
この数日間ずっと同じ事ばかりを言い続けている棗に、さすがの木崎も溜息を零した。
昨日、いつも後ろで一つに纏められている棗の髪を見て、
『そんなに湿気が嫌なら、その長い髪を切ってこい』
と言った時にも、やはり今と同じく『ひどっ!』と顔を顰めていた。
いい加減に溜息も吐きたくなるというもの。
そんなやりとりをしながら生徒会室へ向かう廊下の途中、不意に、それまでグチグチと騒いでいた棗の足がピタリと止まった。
何に気を取られたのか、ついつられて一緒に足を止めてしまった木崎は、棗が前方を見て固まっている事に気がついてその視線の先を追う。
見ているのは、今二人が歩いている廊下の少し先。もう一つの廊下とぶつかる辻部分。
そこで立ち止まって話をしている二人の人影。
それが誰かわかった時点で、木崎はその双眸を苛立たしげに細めた。
「…なんで響ちゃんと柳先輩が…」
横から聞こえる棗の呟きに舌打ちしそうになった自分を、意志の力で押し込める。
以前、響也が屋上で襲われそうになったところを助けたのが、柳と都築の二人だという事は聞いていた。
だが、他人とは隔絶した距離を置いていた今までの柳の性格から考えれば、それ以降も響也と関わるなんて事はありえなかった。
そう、“今までの柳”なら、ありえない行動。
いったいどういうつもりなのか。
あの“他人とは違う次元で生きている柳”が、誰かと関わろうとするなんて…。奏華に入ってからのこの四年と数ヶ月の間で初めて見る光景。
「皇志…。もしかして柳先輩、響ちゃんの事気に入っちゃったのかな」
「………」
棗の言葉と視線が木崎の横顔に向けられた事はわかったが、それに返事をする事は出来なかった。
響也の為を思えば、自分はこのまま近づかない方がいいのかもしれない。
何気ない行動一つで響也に危害が加えられる事があるとわかった今、これまでのように気軽な行動は取れない。
でも、響也との関係を失くしたくはない。
どうすればいいのか模索していたこの数日。
まさか柳が出てくるとは…、こんな予測はしていなかった。
「彼方、行くぞ」
「…うん…」
このままここで立ち止まっているわけにもいかない。
木崎は、無表情という表情を顔に貼り付け、何事もなかったように足を前へ踏み出した
「響ちゃん」
練習室へ向かおうと廊下を歩いている途中、ここ最近聞いた覚えのあるのんびりした声に名を呼ばれて、足を止めた。
振り向いた先には、相変わらず鼻先まである長い前髪のせいで顔がよくわからない柳先輩の姿。
あの前髪で、前がしっかり見えているのか疑問だ。こっちからは、柳先輩の目はほとんど見えない。
数えれば七不思議が出てきそうな相手に、軽く頭を下げた。
「どこ向こうてるん?」
「今から練習室の予約を入れてあるんです」
「…練習室…」
突然、柳先輩のフラフラと定まらない足取りがピタリと止まった。
今の俺の発言に何か問題があったのだろうか…。
相手が相手なだけに、ちょっとした事で警戒してしまう。
綺麗なラインを描く顎先を指でゆっくり撫でた柳先輩は、またフラリと歩き出し、真横に来た。
そして、
「…あー…、なるほど…」
何やら納得したらしい。満足そうに数度頷いている。
「あの…、柳先輩?」
いったい貴方の頭の中では何が起きているんですか、と聞きたい気持ちをグッと押さえて柳先輩の顔を見上げると、その薄い唇の端がニッと引き上がった。
悪いけど、ちょっと怖い。
「さっきな、なんや知らんけど梶が泣いてはったんよ」
「梶先輩って、この前の…」
「クラスメイトの、あの梶封馬 や。なんで泣いてはるのか…、そんなんわからへんやろ? それもワザワザ目の前で泣きよるんよ、鬱陶しくてかなわんわ。そう言うて追い払ぅたんやけど…」
「…先輩…、何かしたんじゃないんですか?」
あの気の良い先輩が泣くなんて…、それもこの人の目の前で泣くなんて、どう考えても原因は貴方でしょう。
…とハッキリ言える勇気は俺にはない。
ちょっと引き攣り気味に問うと、悪びれもなくハッキリ頷かれた。
「今思い出したわ。僕のせいや」
「何を…したんですか?」
「昨日の練習室の予約な、僕の予約取るついでに梶の分も取ってやる言うてたんやけどな」
「…忘れたんですね?」
「その通り。響ちゃんなかなか鋭いなぁ。ホンマに今思い出したわ。…梶の奴、今日の授業で失敗しはって、『練習不足だ! 昨日は何してたんだ!!』ってエライ怒られててなぁ…、あいつアホや…思うて見てたんやけど、あれ僕のせいや」
「………」
…不憫な…。
さすがに笑えなかった。
その時、柳先輩の視線がふいっと上がって俺の背後に向けられた。
なに?
つられて後ろを振り返った俺の目に映ったのは…。
「…木崎さん…」
今いる場所的に考えて、これから生徒会室へ向かうのだろう木崎さんと棗先輩の姿があった。
俺の呟きが聞こえたのか、木崎さんが一度だけチラリと視線を向けてきたけれど、まるで何事もなかったように正面に向き直り、何も言わずに歩き去ってしまった。
…もう関わらないと決めたのに、気にとめてもらえなかった事がこんなに苦しいなんて…。
鉛を飲みこんでしまったかのような胸の重さに、思わずワイシャツの胸元を握りしめた。
棗先輩だけは、柳先輩に目礼をした後に困ったような表情を向けてきた。
でも、俺が見返したと同時にその視線は逸らされて…。
会いたくないのに、無視されると追いかけたくなるなんて…、いったい俺はどうしたいんだろう。
視線が合っただけで、こんなにも心の中がグチャグチャになる。
そして、去って行った木崎達の後ろ姿を交互に眺めていた柳は、前髪に隠された怜悧な双眸を細め、小さな声で「ふぅ~ん」と呟いていた。
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