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canon4

§・・§・・§・・§ 7月も半ばに入り、朝の天気予報で梅雨明け宣言が出された。 気象予報士によると、今年の梅雨明けは例年よりも少しだけ早いらしい。 ジメジメが軽減されたのは嬉しいけど、本格的な夏の到来には喜べない。 夏の間は、空調が整えられている練習部屋でピアノと一緒に寝泊まりしたいくらいだ。 そして今日から、コンテストに向けて一般生徒達の事前テストが開始される。 奏華学院以外の外部の学生達も、コンテスト出場を希望する者達はテストを受ける事になる。 奏華学院音楽科の上位者だけは、テスト無しでコンテストに出られる事が決まっているが、上位者に位置付けられている全員が出られるわけじゃない。各科の4番までだ。 ピアノ科からは、二年の木崎さん、三年の2名、そして一年の俺。 ヴァイオリン科からは、二年の棗先輩、一年の鬼原、三年の2名。 声楽科からは、三年の柳先輩、二年の御厨先輩、三年の1名、一年の1名。 計12名がそれにあたる。 でも、この上位者の中で毎年2人くらいはコンテスト出場を断る人がいる。 そして今年は、その“断る人”の中に俺も入るかもしれない。 帰りのLHRが終了したと同時に担任に手招かれて歩み寄れば、用件は「コンテスト出場届を出せ」の一言だった。 明日が提出期限日。 なんでもいいからとにかく出しやがれ。 多少言葉は柔らかかったものの、直訳するとそういう感じ。 とりあえず頷いてその場から逃げたけれど、心の中では出場しない方に気持ちが傾いていた。 ここ最近起きた出来事によって、俺自身、色々と考えた結果だ。 音楽が好きで、ピアノが好きで、上手くなりたくてここに来た。この学院に来れば、同じように音楽が好きで、互いに競い合える仲間が出来る。 そう思っていたのに、実際は、自分が努力する事もなくただ他人を妬む者、自分の音楽の腕を磨くのではなく他人を貶めようとする者、そんな人間ばかりだった。 そんな中でコンテストを受けて何になる? 出るからには優勝したい。でも何かしら俺が賞を取れば、たぶんまた嫌がらせをされるのだろう。 このまま続けても、求めているものとは違う方向へ行ってしまいそうだと思うのは、考え過ぎなんだろうか。 気がつけば音楽自体が嫌いになってしまいそうで、それがいちばん怖い。 コンテスト出場届の提出日である明日が過ぎてしまえば、自分の中でも諦めがつく。それに、周囲も諦めて何も言わなくなるだろう。 片手に持っている数枚の楽譜。ただの紙切れなのに、今はとても重い。 そんな事を考えながらも、個人練習の為に練習室へ向かっている自分自身が不思議だ。 先が見えない不安に右往左往しながらも、惰性のように動いている。 溜息を吐きだし、予約してある練習室のドアを開けた。 全身に触れる、湿気のないサラリとした空気。 ピアノの為に整えられた涼しい空気にホッとする。 ドアをピタリと閉じた途端に感じる、この遮蔽感が心地良い。 ここにいる時だけは他人の気配を感じず安らげる、そんな場所。 譜面立てに楽譜を置き、しっとりと艶めくピアノにそっと触れた。 …やっぱりピアノからは離れられない、か…。 こうして目の前にしてしまえば、ピアノへの愛しさは増すばかり。 静かに蓋を開けると現れる、白鍵と黒鍵の美しいコントラスト。 人差し指で軽く叩けば、ポーンと透き通る音が室内の空気を震わせる。 その時、ミシっという音と共に、部屋の遮蔽感が唐突に失われた気配がした。 誰かがドアを開けた証拠。 俺は部屋を間違えてはいない。きっと誰かが自分の予約した部屋とこの部屋を間違えたんだろう。 一瞬の間でそんな事を思いながら背後を振り向いた。 そして、その推測が間違っていた事を知る。 「………」 「………」 室内に入ってきた人物は、無言のまま後ろ手にドアを閉めた。その間も、俺から視線を外さない。 無意識に後退ろうとした体が、トンっとピアノにぶつかった。 こうやってまともに向かいあうのは、いつ振りの事か。 「…なんで…、木崎さん…」 緊張に絡まった声が掠れた。 元々優しい顔立ちではないものの、今の木崎さんの顔は明らかに鋭く不機嫌さに彩られていた 。 確実に怒っている。 どうして。 と疑問が浮かんだのも束の間、先日の棗先輩との会話を思い出した瞬間、この木崎さんの不機嫌さがわかった。 コンテストの件か。 無言のままゆっくりと歩み寄ってくる姿が異様な迫力に満ちていて…。背後のピアノに邪魔されてもうこれ以上下がれないとわかっていても、体は後ろに逃げようとしてしまう。 50㎝程の距離をあけて目の前に立った木崎さんは、感情を押し殺したような低い声を放った。 「出場届を出す気がないのか」 「………」 静かだからこそ怖い。秘められた怒気が、鋭い双眸からも伝わってくる。 その視線を受け止める事に耐えきれずに俯くと、苛立たしげに舌打ちをされた。 そして、 「…お前が逃げるとはな」 そう呟かれた言葉に、俺の中の何かがプチっと小さな音を立てて切れた。 逃げる? ……あぁ、確かにこれは逃げだ。でもその何が悪い? 俺の事なんて何もわかっていないくせに、こうやっていつも人の事を振り回すくせに、こんな風に責められる謂われはない! 拳をグッと握り締めて顔を上げた。 「…逃げて…、逃げて何が悪いんですか? 穏やかな日常を望んでどこが悪い? …俺はもう、音楽をやる人間が信じられない。みんな何をしにここに来てるのか…。他人を貶めて楽しむ為? 他人の邪魔をする為? …俺は、そんな奴等と同じコンテストなんて絶対に受けたくない…ッ、もう放って置いて下さい!」 そう声を荒げた瞬間、 「ふざけるな!!」 激怒した木崎さんが、痛いほどの力で俺の腕を掴んできた。

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