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canon5

「お前がそんな中途半端な気持ちでピアノを弾いてたなんて思わなかった。周りの奴らがなんだ、お前自身は音楽が好きなんじゃないのかよ! お前自身の考えはどこにいった? 周りの奴らを気にしてお前が逃げるのか!? 逃げた奴はその時点で負け犬だ、敗者なんだよ! 敗者が何を言っても単なる負け惜しみの戯言にしか聞こえない! 周りの奴らの考えがおかしいと思うなら、お前の実力を見せつけた上で周りにそれを理解させろ! この実力主義の世界は勝った奴の意見が全てだ! 負けた奴の言葉なんて誰も聞かない! …………………お前は…、こんな事で逃げ出すような、そんな安い奴じゃないだろ……」 「……木崎さん…」 最後は、どこか切なげに眉を顰めて呟いた木崎さん。 こんな姿は初めてで、そしてこんな事を言われたのも初めてで…、息が出来なくなる程の衝撃を受けた。 俺の事なんて、どうでもいいと思われていると思ってた。 コンテストに出ない事も、吐き捨てられて終わりだと思ってた。 まさか、ここまで真剣な言葉をぶつけてくれるなんて…。 目頭が熱くなって、噛みしめた唇が震えそうになる。 木崎さんの叱咤激励が、こんなにも嬉しいなんて。 もう気にかけてくれる事はないだろうって諦めて、それならそれでいいや…って自分自身に言い聞かせて。 関わらなければ平穏無事な生活が送れるんだから、これでいい。 そんな風に思っていたのに、こうやって本音をぶつけられた瞬間、心の内に聳え立ち始めていた壁が、いとも簡単に崩れ落ちた。 「…俺………本当はコンテストに出たかったんです」 呟いた小さな声は、それでもしっかり木崎さんの耳に届いていたようで、続きを促すように頷かれた。 「でも、出た後のその先を考えたら、わからなくなって…。なんの為に音楽をやってるのか、わからなくなって。…コンテストに出たら出たで、また嫌がらせをされるかもしれないって考えたら、もう出なくてもいいか…って、そう思ったんです。なんでこんな思いまでしてコンテストに出なければならないのか、わからなくなったんです」 「………」 自分自身すら誤魔化していた本心を告げた瞬間、すごく心が軽くなったような気がした。 情けない部分を隠した事によって溜まっていった鬱屈。それが泡のように消えていく。 認めたくはなかった己の心。 “不安” “メンタルの弱さ” “くだらないプライド” 本当に馬鹿みたいだ。 自覚した途端、熱くなった目の縁から涙が零れ落ちる。 そのまま立ち尽くしていると、頬に触れた優しい温かさにハッと我に返った。 「…木崎さん」 「泣いてんじゃねぇよ」 頬に触れた温かさは、涙を拭ってくれた木崎さんの優しい指先。 さっきまでの逃げたくなるような鋭い瞳が、今はどこか困ったように緩められている。 突然、心臓が強く鼓動を刻みだした。ドキドキと忙しないそれに連動されて血の巡りがよくなったのか、一気に顔が熱くなってくる。 …なんだよこれ。 木崎さんに触れられている頬から何か痺れのようなものを感じて、思わず顔を引いてしまった。 離れた指先にホッとしたような寂しいような…。 「出たいと思う気持ちがあるなら出ろ。俺はお前と同じ場所で戦いたい」 「……わかりました」 さっきまで俺の頬に触れていた指先をグッと握り締めながら言った木崎さんに、ハッキリ頷き返した。 俺の返事を確認した木崎さんはそれ以上何かを言う事もなく、もう一度まっすぐに視線を合わせてから、来た時と同様静かに練習室を出て行ってしまった。 扉が閉まり、視界からその姿が消え失せると、途端に襲い来る脱力感。 一気に体の力が抜けて背後のピアノに寄りかかった。 久し振りの対面は異常なほどの緊張をもたらしたようで、たった数分の出来事が今ではもう夢だったかのよう。 でも、胸の内でモヤモヤしていたものが見事に消え失せているのを感じた。 あの人は本当に凄い。芯がぶれていない。 自分に自信を持てるのは、それだけの努力をしているから。 自負があるからこそ、周囲に振りまわされず確固たる己を持ち続ける事が出来る。 それは誰にでも簡単に出来る事じゃない。強い意志が必要だ。 あの人はその“強い意志”を自分で築きあげている。 「…参ったな…」 苦い笑いを零して髪をグシャっとかき上げた。 格好良すぎだ。 なぜ今まで木崎さんにだけは色々な事をされても許せていたのか。なぜ少しの事でも木崎さんに対して苛立つのか。 そして、切り捨てられたと諦めたはずなのに、こうやって気にかけてもらった途端に湧き起こる嬉しさはなんなのか…。 今、やっと理由がわかった。 本気で惹かれているのだと。ようやく気がついた。 藤堂さんに対して感じていたのは、恋じゃなくて安らぎ。 恋愛とはフワフワとした幸せなだけのものだと勝手に思っていたけれど、それは違う。 惹かれれば惹かれるほど苦しくなる。感情が制御出来なくなる。 それが人を好きになる事だと今になってわかるなんて、本当に俺は鈍い。 既に木崎さんとの距離は離れている。 こうやって気にかけてくれたって事は、少なからず憎まれたり嫌われたりはしていないと思うけど…。 でも、ここ最近の事を考えれば、もう木崎さんと馴れ合う事は出来ないだろう。 「馬鹿だなホントに…」 自嘲と共に深い溜息を吐きだした。

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